上田合戦(1585・1600年)真田vs徳川、二度の籠城戦と秀忠遅参の真相

合戦記事

第一次:天正13年(1585年)閏8月〜11月 | 第二次:慶長5年(1600年)9月|信濃国上田城うえだじょう(現・長野県上田市)


3行でわかるこの戦い

  • 信濃の小領主真田昌幸が、上田城を舞台に二度にわたり徳川の大軍を撃退した「日本城郭史上、唯一の二度の実戦勝利」
  • 第一次(1585年)は徳川7,000 vs 真田2,000、第二次(1600年)は徳川秀忠軍38,000 vs 真田2,500という圧倒的な兵力差を、地形と戦術で覆す
  • 第二次合戦の影響で徳川秀忠が関ヶ原本戦に遅参、その後の真田家分裂(犬伏の別れ)とともに、真田昌幸・幸村父子の名を歴史に刻んだ

上田合戦 インフォグラフィック

本筋説 ― 教科書に載っている定説ベースの解説

なぜ戦いは起きたのか ― 真田家の宿命

上田合戦の主役・真田氏は、信濃国小県郡(現・長野県東御市〜上田市一帯)を本拠とする小領主だった。武田信玄に仕えた真田幸隆さなだゆきたか(昌幸の父)の代から武田家臣として頭角を現し、信玄死後は武田勝頼に仕えた。1582年(天正10)の武田家滅亡後、真田昌幸は織田信長おだのぶながに従属するが、同年6月の本能寺の変で信長が横死。信濃国は権力の空白地となり、ここから真田家の波乱の運命が始まる。

本能寺の変直後、旧武田領(甲斐・信濃)の支配権を巡って徳川・北条・上杉が激しく争った。これが「天正壬午てんしょうじんごの乱」である。昌幸は当初北条氏直に従い、次いで徳川家康に従属、さらに後には上杉景勝と通じるなど、目まぐるしく主君を変えた。豊臣秀吉が後に昌幸を「表裏比興ひょうりひきょうの者」と評したのは、この時期の昌幸の動きを指している。

火種となったのは、上野国沼田領ぬまたりょう(現・群馬県沼田市一帯)の領有問題だった。沼田領は武田家臣時代に真田家が自力で切り取った領地である。1585年(天正13)、徳川と北条の和睦が成立した際、家康は和睦条件として「沼田領を北条氏に引き渡す」ことを昌幸に命じた。しかし昌幸は「沼田は徳川から与えられた領地ではない、自力で得たものだ」として拒否、敵対関係にあった上杉氏と通じる。

家康はこれを「真田の造反」と捉え、討伐を決断。1585年8月、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7,000の兵を真田の本拠・上田城に派遣した。第一次上田合戦の幕開けである。

第一次上田合戦(1585年)の経過

当時、真田昌幸は本拠地の上田城(1583年に築城開始、未完成)に約700、長男真田信幸さなだのぶゆき(後の信之)の守る砥石城に300、叔父矢沢頼綱やざわよりつなの守る矢沢城に200の兵を配置していた。さらに上杉景勝に援軍を要請し、人質として次男真田信繁さなだのぶしげ(後の幸村)を越後に送った。合計で約2,000〜2,500、対する徳川軍は約7,000である。

同年閏8月2日、徳川軍は上田城の唯一の弱点である東側から総攻撃をかけた。上田城は南を千曲川と尼ヶ淵あまがふちの断崖、北西を矢出沢やでさわ川という天然の要害に守られており、攻撃可能な方角は東のみだった。

徳川軍の先鋒が城下に攻め寄せると、真田勢200の前衛部隊は槍合わせの後、すぐに城内に退却。徳川軍はこれを「真田は弱い」と見て一気に城門に殺到する。しかしこれは昌幸の罠だった。城に近づいた徳川勢に対し、城内から鉄砲・弓矢の一斉射撃、城下町に仕掛けた柵で敵を分断、さらに城下町に放火して混乱を誘発する。

勢いに乗って大手門を突破しようとした徳川勢に対し、昌幸は東城門上から丸太を落として圧殺する戦法を取った。さらに城内から500の兵で討って出るとともに、別働隊が徳川軍の側面を突き、混乱に陥った徳川軍は城下から退却する。退却中、神川(かんがわ)の渡河点で待ち伏せていた信幸の砥石城軍が側面から攻撃、増水していた神川を渡れずに溺死する者も続出した。徳川軍は約1,300の戦死者を出して敗走した(『三河物語』『真武内伝』など軍記物による数字で諸説あり)。

これが「神川合戦」とも呼ばれる第一次上田合戦の本戦である。徳川軍は小諸城に撤退し、その後も上田城の包囲を続けるが攻略には至らず、11月に重臣の石川数正が豊臣秀吉のもとに出奔する事件が発生。家康はこの対応に追われて上田から兵を引いた。真田は2,000の兵で7,000の徳川軍を破ったことで、一躍その名を天下に轟かせる。

第一次上田合戦 布陣図(神川合戦)

合戦の間 ― 真田家、豊臣傘下に

第一次上田合戦の後、真田家は豊臣秀吉の傘下に入り、徳川家康とも秀吉の仲介で和解する。1589年(天正17)には沼田領問題に再び決着がつけられ、沼田城周辺は北条氏に渡される一方、真田は名胡桃城を確保。しかしこの直後、北条家臣の猪俣邦憲いのまたくにのりが名胡桃城を奪取する事件が発生し、これが翌1590年の小田原征伐の引き金となる。北条氏滅亡後、真田家は信濃上田・上野沼田の所領を安堵された。

1598年(慶長3)に秀吉が死去、豊臣政権は動揺する。家康と石田三成の対立が顕在化し、1600年(慶長5)6月、家康は会津の上杉景勝討伐の兵を起こす。これに従って関東に向かっていた真田昌幸・信幸・信繁父子は、7月21日、下野国犬伏いぬぶし(現・栃木県佐野市)で運命の決断を下す。石田三成挙兵の報を受けた昌幸は、長男・信幸を東軍に、自分と次男・信繁を西軍にと家族を二分させた。これが「犬伏の別れ」である。

昌幸と信繁は上田に帰還、信幸はそのまま家康に従う。徳川家康は東海道を進んで関ヶ原に向かい、息子の徳川秀忠には別働隊として中山道を進ませた。秀忠が率いるのは徳川主力38,000、ここに榊原康政・本多正信・大久保忠隣ら徳川家の重臣が揃った精鋭部隊である。秀忠軍は中山道を西進し、9月初旬に信濃国小諸に到達、ここで上田城の真田を攻略する任務を受ける。

第二次上田合戦(1600年)の経過

9月5日、秀忠は使者を上田城に送り、真田昌幸に降伏を勧告する。昌幸は表面上は降伏に応じる姿勢を見せて時間を稼ぎ、その間に城の防備を固めた。徳川方が「真田は降伏した」と油断したところで突如挑発に転じ、戦闘が始まる。

9月6日、秀忠は本陣を染屋台に置き、上田城に向けて進軍を開始。先鋒の本多忠政・牧野康成らが上田城下に攻め寄せた。しかし真田信繁の率いる伏兵が城外から徳川軍の側面を急襲、稲穂の中に伏せていた鉄砲隊が一斉射撃を浴びせる。徳川軍は浮足立ち、後退する。さらに真田軍は神川の上流にダムを築いて貯水しており、徳川軍が神川を渡河中に堰を切って濁流を浴びせるという作戦も実行したと伝わる(ただし軍記物の脚色との指摘もある)。

真田軍は2,500、徳川軍は38,000という15倍以上の兵力差にもかかわらず、徳川は決定的な打撃を上田城に与えられないまま、城下を焼き払う程度の成果しか得られなかった。9月8日、秀忠のもとに父・家康からの上洛命令が届く。家康サイドでは西軍との関ヶ原本戦が間近に迫っており、秀忠軍の到着を待ちきれなくなっていた。

秀忠は上田攻めを断念し、9月9日には抑えの兵を残して西へ向かった。しかし悪天候による進軍遅延、距離の長さなどが災いし、9月15日の関ヶ原本戦には間に合わなかった。家康は秀忠の遅参に激怒したと伝わる(ただし後述の通り、この「激怒」自体が後世の脚色という説もある)。

第二次上田合戦 布陣図(関ヶ原前哨戦)

合戦のその後

関ヶ原本戦で東軍が勝利した後、真田昌幸・信繁父子は本来なら処刑される運命だった。しかし長男・信幸の必死の助命嘆願と、信幸の岳父・本多忠勝の支援により、紀伊国九度山くどやま(現・和歌山県九度山町)への流罪に減刑された。昌幸は1611年(慶長16)に九度山で病没、享年65。信繁はその後14年にわたり九度山で蟄居生活を送り、1614年(慶長19)の大坂冬の陣で大坂城に入城、真田幸村として歴史に名を残すことになる。

一方、上田城は関ヶ原後、徳川によって徹底的に破却された。堀は埋められ、土塁は崩され、櫓も破壊された。信幸(後に信之と改名)は上田領を継承するが、後に松代に移封され、上田には小諸藩から仙石氏が入った。仙石忠政の代に上田城は再建されるが、これは真田時代とは異なる近世城郭としての改修である。現在、上田城跡公園で見られる本丸・二の丸・隅櫓などの遺構は、主に仙石氏時代以降のものである。

真田家は信幸(信之)の系統が松代藩主として幕末まで続き、信繁の系統は大坂の陣で滅亡した。しかし「日本一の兵(つわもの)」と称された真田幸村の名声は江戸時代を通じて高まり続け、上田合戦は「真田の智略の象徴」として軍記物・講談・浮世絵に繰り返し描かれた。日本の城で「二度の実戦に勝利した城」は上田城のみであり、真田氏の戦術と上田城の構造は、現代でも城郭研究の対象となっている。


諸説 ― 様々な角度から可能性を探る

【諸説①】第二次上田合戦と徳川秀忠の関ヶ原遅参 ― 通説の見直し

第二次上田合戦の最も有名な物語が、「徳川秀忠が真田昌幸の策略に翻弄されて上田城を攻めあぐね、関ヶ原本戦に遅参して家康に激怒された」というエピソードである。この通説は、明治以降の歴史教科書から現代の歴史小説・大河ドラマまで繰り返し描かれてきた。

しかし近年の研究では、この通説には複数の疑問が呈されている。

秀忠は「上田攻略後の上洛」を命じられていた

当時の書状研究から、秀忠が家康から受けていた命令は「中山道を進み、上田城の真田氏を攻略後に上洛せよ」という内容だったことが分かっている。つまり上田攻めは予定の行動であり、「真田に足止めされた」のではなく「もともと上田を攻める計画だった」のである。

関ヶ原合戦研究で知られる渡邊大門わたなべだいもんは『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』(PHP新書、2019年)で、当時の徳川軍は東軍先遣隊と合流する時期について明確な期日を設定していなかったと指摘する。9月15日の関ヶ原本戦という日付自体、開戦直前の流れの中で偶発的に決まったものであり、秀忠が「9月15日に間に合うように上洛しろ」と命じられていたわけではない。

家康の「激怒」も江戸時代の脚色か

秀忠が関ヶ原に遅参した際、家康が激怒して数日間面会を許さなかったという有名な逸話も、史料的根拠が薄いとされる。秀忠軍は関ヶ原本戦後も東軍主力として機能しており、戦後の論功行賞でも秀忠の評価が下がった形跡はない。むしろ家康は秀忠を後継者として育成する方針を変えず、1605年には将軍職を秀忠に譲っている。

家康の「激怒」エピソードは、後世の徳川美化(家康は完璧、秀忠は凡庸)という史観の中で誇張された可能性が高い。実際の秀忠は、上田攻めを途中で打ち切って急行するという的確な判断を下しており、関ヶ原遅参は不運な結果ではあったものの「失態」とまでは言えないというのが近年の評価である。

【諸説②】「犬伏の別れ」の本当の動機 ― 家族分裂の理由

真田家の運命を決した「犬伏の別れ」(1600年7月21日)。この場面は江戸時代から「真田家を残すための家族の苦渋の決断」として美しい物語に仕立てられてきた。

通説 ― 真田家存続の智略

通説では、昌幸は「西東軍どちらが勝っても真田家の血統が残るよう、家族を二分した」とされる。つまり東軍が勝てば信幸が真田家を継ぎ、西軍が勝てば昌幸・信繁が大名として残る、という保険戦略である。これは江戸時代の軍記物『真武内伝』『真田三代記』などで強調された解釈だった。

近年の研究 ― 姻戚関係から見た自然な分岐

しかし近年の研究では、犬伏の別れは「智略」というよりも、各人の姻戚関係から自然に決まった分岐だった可能性が指摘されている。

真田家の婚姻関係を整理すると以下のようになる:

  • 真田信幸の妻:小松姫(本多忠勝の娘で家康の養女) → 東軍に従うのが自然
  • 真田信繁の妻:竹林院(大谷吉継の娘) → 西軍に与するのが自然
  • 真田昌幸の妻:山手殿(石田三成の妻・皎月院こうげついんの姉妹とされる説あり) → 西軍寄り

つまり信幸は本多家・徳川家との結びつきから東軍に、信繁と昌幸は大谷家・石田家との結びつきから西軍に、それぞれ自然に分岐したという解釈である。この見方では、犬伏での話し合いは「どちらに付くかをゼロから決める会議」ではなく、「既に姻戚関係から決まっていた方向性を、家族で公式に確認する場」だったことになる。

「真田家存続」が結果として実現したことの意味

もちろん、昌幸が「家族分裂」という形を選んだ背景に、真田家存続という戦略的計算が全くなかったとは言い切れない。結果として真田家は信幸(信之)の系統が松代藩主として明治維新まで存続しており、家族分裂が真田の血脈を救ったのは事実である。「自然な分岐」と「戦略的計算」のどちらが主因かは、最終的には昌幸の内面に関わる問題で、確定的な結論は出せない。

【諸説③】真田の伏兵・水攻めは史実か、軍記物の脚色か

第二次上田合戦の有名なエピソードに、「真田信繁が稲穂の中に伏兵を潜ませて徳川軍を奇襲した」「神川の上流にダムを築き、徳川軍の渡河中に堰を切って濁流で押し流した」という戦術がある。これらは『真武内伝』『真田家文書』などの軍記物に描かれ、講談・浮世絵でも繰り返し題材になった。

同時代の一次史料には記述なし

しかし、これらの劇的な戦術は同時代の徳川方一次史料には記述がない。徳川秀忠軍の従軍記録や上田攻め参加者の書状などを精査しても、「神川の水攻めで多数が溺死した」「稲穂の伏兵に殲滅された」といった被害の記述は確認されていない。

第二次上田合戦における徳川軍の損害は、第一次合戦と比較して大幅に少なかったと推定されている。秀忠軍は上田を素通りすることなく、城下を焼き払う程度の成果を上げて撤退しており、決定的な敗北ではなかった。秀忠が西へ向かったのは、戦術的敗北ではなく家康からの上洛命令を受けたためである。

軍記物の「真田神話化」

稲穂の伏兵・神川の水攻めなどの劇的描写は、江戸時代を通じて進行した「真田神話化」の中で形成されてきた可能性が高い。真田幸村の名声が高まるにつれ、第二次上田合戦も「真田の智略が徳川を翻弄した戦い」として美化され、戦術的勝利の物語が膨らんでいったと考えられる。

ただし、注意すべきは「軍記物の戦術が完全な創作」とまでは断定できない点である。真田が地形を活かした巧妙な戦術を取ったこと、徳川秀忠軍に手痛い打撃を与えたことは事実であり、その細部が後世どこまで誇張されたかが論点となっている。「ゼロか100か」ではなく、「実態と物語のグラデーション」の中で評価すべき諸説である。

【諸説④】真田昌幸「表裏比興の者」の本当の意味

豊臣秀吉が真田昌幸を「表裏比興の者」と評したというエピソードは、真田昌幸を象徴する言葉として広く知られている。「表と裏で態度を変える卑怯者」というネガティブな意味で受け取られることが多いが、近年の研究ではこの解釈に疑問が呈されている。

「比興」の本来の意味

「比興」という言葉は、戦国時代の用法では現代日本語の「卑怯」とは意味が異なる。戦国期の文書では「比興」は「機を見るに敏」「機略の才に長けた」というニュアンスで用いられることが多く、必ずしも悪い意味ではなかった。むしろ「したたかさ」「曲者ぶり」を半ば称賛するような表現として使われていた。

秀吉が昌幸を「表裏比興の者」と呼んだ際の文書(1585年閏8月、上杉景勝宛の書状)の文脈を見ると、昌幸が徳川と上杉の間で立場を変えたことを批判しつつも、その機略を「ただ者ではない」と認めるニュアンスを含んでいたと解釈される。

中小国衆の生存戦略としての「表裏」

歴史研究者の平山優ひらやまゆうは『真田信繁』(角川選書、2015年)などで、真田家のような中小国衆が大国に挟まれて生き残るためには、「表裏」の動きは戦略的合理性があったと指摘する。徳川・北条・上杉という大国に囲まれた信濃の小領主が、一つの主君に殉じるという選択を取れば、領地・家臣・領民もろとも消滅する。複数の大国を天秤にかけ、機を見て立場を変えるのは、生存戦略として正当な行動だった。

同じく中小国衆だった木曽義昌きそよしまさ小笠原貞慶おがさわらさだよし仁科盛信にしなもりのぶなどの信濃武士も、似たような「表裏」を繰り返しながら戦国期を生き延びている。真田昌幸の動きは、当時の信濃国衆の文脈の中ではむしろ「機略の優等生」だった可能性が高い。

「卑怯者」という現代的な道徳判断ではなく、「中小国衆の生存戦略としての機略」という視点で捉え直すべきだというのが、近年の真田研究の方向性である。

【諸説⑤】上田城の縄張りと「弱点を罠にする」戦術

上田城は、真田昌幸が1583年(天正11)から築城を開始した平城である。当時としては比較的小規模な城でありながら、徳川の大軍を二度撃退したという戦果から、城郭研究者の間でその構造が注目されてきた。

地形を活かした要害

上田城は、上田盆地のほぼ中央、千曲川の北岸に位置する。南は千曲川とその分流の尼ヶ淵あまがふちの断崖(現在の上田城跡駐車場一帯)に面し、北と西は矢出沢やでさわ川が外堀の役目を果たしていた。築城前から流れていた矢出沢川や蛭沢川の流路を、人工的に変えて城と城下町を囲むように整備したとされる。

この水系と地形の結果として、上田城は南・北・西の三方向からの攻撃が困難な構造になっている。攻撃可能な方角は東のみであり、城下町も東側にしか広げられなかった。現在も上田市の中心地である海野うんの町は、この東側に発達した城下町の名残である。

「弱点を罠にする」逆転の発想

城郭研究者の間で近年指摘されているのは、上田城の縄張りが「東側の弱点を逆手にとって罠にする」設計になっていたという見方である。

通常の城郭設計では、弱点となる方角を強化するために櫓・堀・土塁を厚く配置する。しかし上田城は逆に、東側を「敵を呼び込む経路」として設計したと考えられる。城下町に複数の柵を交互に配置し、敵が突入すると進路が屈曲して側面攻撃を受けやすい構造、神川を渡河させた後の退路を絶ちやすい配置など、「攻めさせて殲滅する」発想が随所に見られる。

第一次上田合戦では、徳川軍がこの罠に見事に嵌った。城下町に侵入した徳川軍は柵で進路を分断され、城内からの鉄砲・弓矢、側面からの伏兵、撤退時の神川での待ち伏せという三重の攻撃を受けた。これは偶然の戦果ではなく、上田城の縄張りそのものが「東から攻めてきた敵を殲滅する」目的で設計されていたからこそ可能だった戦果だと評価されている。

北東部の「隅欠」と鬼門除け

上田城のもう一つの特徴として、本丸・二の丸の北東部に「隅欠すみおとし」と呼ばれる構造が見られる。これは鬼門除けの呪術的意味とともに、攻撃側の進入経路を絞り込む実用的な機能も果たしていたとされる。真田時代の縄張りは、関ヶ原後に徳川によって破却され、仙石氏時代に近世城郭として改修されたため、真田時代の正確な縄張りは現在でも完全には復元できない。しかし発掘調査の進展により、徐々にその全貌が明らかになりつつある。

【諸説⑥】なぜ秀忠は上田城を落とせなかったのか

第二次上田合戦で、徳川秀忠が38,000の大軍を率いながら2,500の真田に上田城を落とせなかった理由について、複数の説が提示されている。

(a) 通説 ― 真田昌幸の智略

江戸時代から繰り返し語られてきたのが、「真田昌幸の智略が秀忠を翻弄した」という解釈である。降伏を装って時間を稼ぎ、油断したところで挑発に転じ、伏兵と地形を活かした戦術で徳川軍を打ち破ったという物語である。この見方では、真田の戦術的天才と徳川秀忠の未熟さが対比される構図になる。

(b) 秀忠軍の構成 ― 実戦経験不足の世代交代要員

近年の研究では、秀忠軍の構成に注目する見方が増えている。秀忠軍の38,000は、徳川家の主力部隊ではあったが、実戦経験豊富な譜代家臣の多くは家康の本隊(東海道経由)に同行していた。秀忠軍に随行したのは、本多正信・大久保忠隣・榊原康政ら一部の重臣を除けば、比較的若い世代や次世代の家臣団が中心だった。これは家康が秀忠を後継者として育成し、徳川家の世代交代を進めるための布陣でもあった。

実戦経験豊富な譜代家臣が中心の家康本隊が関ヶ原で順調に作戦行動したのに対し、世代交代要員中心の秀忠軍が上田で苦戦したのは、軍の質的構成の違いを反映しているとする見方である。

(c) 悪天候と進軍遅延

9月初旬の信濃国では、秋雨前線による悪天候が続いていた。秀忠軍は中山道を進む過程で雨により進軍が遅延し、上田到着時点で既に時間的余裕が少なくなっていた。9月8日に家康からの上洛命令が届いた時点で、秀忠は上田攻めを継続する時間的・戦略的合理性を失った。落とせなかったというよりも、「最初から時間制約のある攻略任務だった」という見方である。

(d) 「攻略後の上洛」という命令の優先順位変化

家康の当初の指示は「上田攻略後に上洛」だったが、関ヶ原本戦が間近に迫る中で「攻略を断念してでも上洛」に優先順位が変わった。秀忠は変化する戦略状況に応じて上田攻めを打ち切る判断を下しており、これは結果的に正しい判断だった。「上田を落とせなかった」のではなく、「上田を諦めて上洛した」というのが実態に近い。

これら4つの要因は相互排他的ではなく、複合的に作用したと考えるのが妥当である。「真田昌幸の智略」だけでもなく、「秀忠の凡庸」だけでもなく、軍の質的構成・天候・戦略状況の変化が組み合わさった結果として、第二次上田合戦は徳川にとって不本意な、しかし致命的でもない結果に終わった。


戦略的に見ると

上田合戦を戦略的に俯瞰すると、戦国末期の「中小領主の生存戦略」と「大大名の権力統合」が交錯する局面の典型例として理解できる。

真田昌幸の戦略は、徹底した「機略と地の利」だった。徳川・北条・上杉・豊臣という大国の間を立ち回り、姻戚関係・人質・領土交換などあらゆる外交カードを駆使して、信濃国小県郡という限られた領地を守り抜いた。本拠地・上田城の構造は、東側の弱点を逆手にとった「攻めさせて殲滅する」設計であり、城そのものが昌幸の戦略思想を体現していた。

一方の徳川家康の戦略は、「長期的な圧力と機を見た一気の解決」だった。第一次上田合戦の失敗後、家康は秀吉に仲介を求めて一旦和解し、真田を豊臣傘下に組み込ませる。これは徳川単独で真田を屈服させられなかったことを認める政治判断であり、家康の柔軟性を示すエピソードでもある。秀吉死後の権力空白を経て、関ヶ原前夜には豊臣政権の中で家康が圧倒的優位を確立、その流れで真田を再び挑発的に攻撃する。第二次上田合戦は、家康にとって「真田を再度叩いて服従させる」最後の機会だった。

戦略目標の達成度で見ると、第一次合戦は真田の戦術的勝利・戦略的維持。第二次合戦は真田の戦術的勝利だが、関ヶ原本戦での西軍敗北により真田家本流(昌幸・信繁)は流罪・滅亡という戦略的敗北となった。真田は「戦闘」では勝ち続けたが、「戦争」では負けたとも言える。

注目すべきは、長男・信幸(信之)が東軍に従って真田家本流の所領を継承し、信濃松代藩主として明治維新まで真田家を存続させた点である。犬伏の別れによる家族分裂は、結果として真田家を「戦略的敗北の中で家系を救う」唯一の道だった。昌幸の遺した戦略遺産は、戦闘での勝利ではなく、家族分裂という究極の戦略選択にあったとも評価できる。

上田城という小さな城が二度の実戦に勝利した事実は、城郭史的にも特異である。日本の城郭で「二度の実戦に勝利した城」は他に例がなく、真田の戦術と上田城の構造は、現代でも城郭研究の対象となっている。戦国後期の合戦が大規模化・装備重視に変化する中で、地形と心理戦を最大限活用した真田の戦い方は、「兵力ではなく智略で勝つ」という戦国前期的な合戦の最後の輝きだったとも言えるだろう。


この合戦にまつわる名言・言葉

「真田は表裏比興の者なり」

豊臣秀吉が1585年閏8月、上杉景勝に宛てた書状で真田昌幸を評した言葉。「比興」は戦国期の用法では「機略に長けた」「したたか」というニュアンスを含み、必ずしも全面的な悪評ではない。秀吉が昌幸の機略を半ば認めつつ、徳川と上杉の間を渡り歩く動きに苛立ちを示した表現と解釈される。この言葉は江戸時代以降「真田昌幸の代名詞」として広まり、現代でも真田を象徴する評価として知られる。

― 出典:豊臣秀吉書状(1585年閏8月、上杉景勝宛)

「沼田は徳川より賜りし地に非ず、我が父祖が自力にて切り取りし地なり」

1585年、家康から「沼田領を北条に引き渡せ」と命じられた真田昌幸の返答とされる言葉。沼田領は武田家臣時代に真田家が自力で勝ち取った領地であり、徳川から下賜されたものではないという主張である。この拒否が第一次上田合戦の直接の引き金となった。出典は江戸期の軍記物で、原文そのままの記録ではないが、昌幸の領土観・自立精神を象徴する言葉として広く引用される。

― 出典:『真武内伝』『真田三代記』など江戸期軍記物

日本一ひのもといちつわもの

大坂夏の陣(1615年)で真田信繁(幸村)の最期を見届けた島津家久が、国元への書状で信繁を評した言葉。第二次上田合戦の経験と九度山での蟄居生活を経て、大坂城に入った信繁が見せた戦いぶりを、敵方の薩摩武士が最大級に賞賛した表現である。上田合戦そのものの言葉ではないが、上田で培われた真田の戦術が大坂で結実したことを示す文脈で、しばしば引用される。

― 出典:島津家久書状(1615年5月、薩摩国元宛)

「父を取るか、徳川を取るか」

犬伏の別れ(1600年7月21日)の場面で、昌幸が長男・信幸に問いかけたとされる言葉。徳川家の家臣・本多忠勝の娘を妻とする信幸に対し、昌幸が「父子の絆と徳川への忠義のどちらを選ぶか」と迫った象徴的瞬間である。信幸は「父を裏切ることはできないが、義父である本多忠勝への義理から徳川に従う」と返答したと伝わる。江戸期軍記物の創作的描写の可能性が高いが、真田家分裂の象徴として広く知られるエピソードである。

― 出典:『真武内伝』『真田三代記』ほか


逸話・エピソード集

昌幸、城下に火を放って退路を断つ

第一次上田合戦で、徳川軍を城下町に誘い込んだ真田昌幸は、城下町の町家に火を放って徳川軍の退路を絶ったと『真武内伝』は伝える。当時の城下町は真田家の領民の住まいでもあり、自軍の領地を自ら焼くという過激な戦術である。

これは単なる戦術的奇策ではなく、「領民を巻き込んでも徳川を破る」という昌幸の覚悟を示すとともに、城下町を再建する経済力と求心力を真田家が持っていたことの裏返しでもある。実際に第一次合戦後、真田家は速やかに城下町を再建しており、領民の信頼を失うことはなかった。

― 出典:『真武内伝』ほか江戸期軍記物

石川数正の出奔 ― 第一次合戦終結の隠れた要因

第一次上田合戦で徳川軍が上田から撤退した直接の引き金は、家康の重臣石川数正いしかわかずまさの豊臣秀吉への出奔だった。1585年11月、家康の側近中の側近だった石川数正が、突如として大坂の秀吉のもとに走ったのである。

石川数正は徳川家の軍制・外交の中枢を知る人物であり、その出奔は徳川家にとって致命的な情報漏洩を意味した。家康は急遽軍制を武田流に改めるなどの対応に追われ、上田での真田攻めどころではなくなった。真田昌幸の戦術的勝利だけでなく、徳川家中の動揺という外的要因も第一次合戦の終結を後押ししていた。

― 出典:『家忠日記』『三河物語』ほか

矢沢頼綱、沼田城を死守 ― 第一次合戦の裏舞台

第一次上田合戦と並行して、上野国沼田城でも真田と北条の戦いが繰り広げられていた。沼田城を守ったのは真田昌幸の叔父・矢沢頼綱やざわよりつなである。1585年9月から1586年5月まで、北条氏は数回にわたって沼田城に攻撃を仕掛けたが、矢沢頼綱はこれを全て撃退した。

矢沢頼綱は真田幸隆の弟、つまり昌幸の叔父にあたる人物で、当時すでに70歳近い高齢だった。にもかかわらず、本城・上田が戦いの渦中にある間、沼田城を一切落とさせなかったその守備力は、真田一族の底力を示している。第一次上田合戦は、上田城だけでなく沼田城・矢沢城・砥石城の連動する戦いだったことを忘れてはならない。

― 出典:『加沢記』『沼田根元記』

小松姫の真田信幸への返答 ― 犬伏前夜

犬伏の別れの直前、上田に帰る昌幸・信繁の一行が、信幸の居城・沼田城に立ち寄ろうとした際の逸話。信幸の妻・小松姫(本多忠勝の娘)は、舅にあたる昌幸に対し、「戦時においては敵味方、城内に入れることはできません」と拒否したという。しかし夜になって、小松姫は密かに昌幸を別所に招き、孫たちと対面させたとされる。

この場面は江戸期軍記物の創作的描写である可能性が高いが、戦国期の女性が「武家の妻」として果たした役割と、家族の情を両立させようとした姿として、現代まで語り継がれている。小松姫は信幸の支援を支え続けた女性であり、後の真田家存続の陰の立役者でもあった。

― 出典:『真武内伝』『真田三代記』

秀忠軍に従った若き武将たち

第二次上田合戦で徳川秀忠軍に従っていた武将には、後の徳川幕府を支える顔ぶれが多く含まれていた。榊原康政さかきばらやすまさ大久保忠隣おおくぼただちか本多正信ほんだまさのぶ、本多忠政(忠勝の子)、酒井家次、奥平信昌など、徳川家の中堅・若手の有力武将が一斉に上田に集結した。

これは家康が秀忠を次世代の徳川を担う将として育成するため、意図的に若手・中堅を秀忠の指揮下に置いた配置だったとされる。結果として上田で苦戦したが、その後彼らは江戸幕府の中枢を担う人材として活躍した。上田合戦は徳川家にとって、戦術的には不本意だったが、人材育成の場でもあったという見方もある。

― 出典:『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁』


上田合戦 時系列

時期 出来事
1582年6月(天正10) 本能寺の変。武田家滅亡後の旧領を巡って徳川・北条・上杉が争う「天正壬午の乱」勃発
1583年(天正11) 真田昌幸、上田城の築城を開始。沼田領を巡って北条氏と争う
1585年7月(天正13) 家康が昌幸に沼田領の北条への引き渡しを命令。昌幸これを拒否、上杉氏と通じる
1585年閏8月2日 第一次上田合戦(神川合戦)開戦 ― 徳川軍7,000が上田城に攻撃を開始
1585年閏8月〜9月 真田軍2,000が徳川軍を撃退。神川合戦で徳川軍に約1,300の戦死者(諸説あり)
1585年11月 石川数正、家康のもとから出奔して秀吉に走る。家康は対応に追われ上田から撤退
1589年(天正17) 沼田領問題が再燃。北条家臣による名胡桃城奪取事件が発生
1590年(天正18) 小田原征伐により北条氏滅亡。真田は上田・沼田の所領を安堵される
1598年8月(慶長3) 豊臣秀吉死去。徳川家康と石田三成の対立が顕在化
1600年7月21日(慶長5) 犬伏の別れ ― 真田一族、下野犬伏で東西軍に分裂。昌幸・信繁は上田へ、信幸は家康に従う
1600年9月6日 第二次上田合戦開戦 ― 徳川秀忠軍38,000が上田城に進軍、真田軍2,500が迎撃
1600年9月8日 家康から秀忠への上洛命令。秀忠、上田攻めを断念し9日に西進開始
1600年9月15日 関ヶ原本戦。秀忠軍は間に合わず、東軍勝利
1600年12月 真田昌幸・信繁、信幸と本多忠勝の助命嘆願により紀伊国九度山への流罪となる
1611年6月(慶長16) 真田昌幸、九度山で病没(享年65)
1614年(慶長19) 真田信繁、大坂城に入城。翌年の大坂夏の陣で討死、「日本一の兵」と称される
1622年(元和8) 真田信之、上田から信濃松代へ移封。以後、真田家は松代藩主として明治維新まで続く
1626年(寛永3) 仙石忠政、破却された上田城の再建を開始。現在の上田城跡公園の遺構の基盤に

両軍主要人物

真田方

人物 役割・備考
真田昌幸 真田家当主。第一次・第二次両合戦で総大将。「表裏比興の者」と評された機略の将。第一次時39歳、第二次時54歳
真田信幸(信之) 昌幸の長男。第一次合戦では砥石城を守備。妻は本多忠勝の娘・小松姫。犬伏の別れで東軍に。後の松代藩初代藩主
真田幸村(信繁) 昌幸の次男。第一次時は上杉家への人質で参戦せず。第二次合戦では伏兵を率いて活躍。妻は大谷吉継の娘
矢沢頼綱 昌幸の叔父。第一次合戦時に沼田城を守備、北条の数次の攻撃を全て撃退。当時70歳近い高齢
矢沢頼康 頼綱の子。第一次合戦時に矢沢城を守備。真田一族として奮戦
禰津昌綱 真田家臣。両合戦で上田城本丸の守備を担当
小松姫 真田信幸の妻。本多忠勝の娘で家康の養女。犬伏直前に昌幸の沼田城入りを拒否した逸話で知られる

徳川方

人物 役割・備考
徳川家康 徳川家当主。第一次合戦の主導者として真田討伐を命令。第二次合戦時は東海道経由で関ヶ原に向かう
徳川秀忠 家康の三男・後継者。第二次合戦の総大将として38,000の徳川主力を率いる。当時22歳
鳥居元忠 徳川家臣。第一次合戦の徳川軍総大将の一人。後に関ヶ原前哨戦の伏見城で討死
大久保忠世 徳川家臣。第一次合戦の主力将の一人。「徳川十六神将」に数えられる猛将
平岩親吉 徳川家臣。第一次合戦の主力将の一人。秀忠の傅役を務めた
榊原康政 「徳川四天王」の一人。第二次合戦で秀忠軍の主力将を務める
本多正信 秀忠の側近・参謀。第二次合戦時に秀忠軍に同行、軍議で重要な役割を果たす
本多忠政 本多忠勝の長男。第二次合戦で秀忠軍の先鋒を務める。真田信幸の義兄にあたる

関連史跡マップ・旅行モデルコース

関連史跡マップ ― 上田合戦

マップ上のスポット:

  • 上田城跡公園(城)― 真田昌幸築城の上田城跡。本丸・二の丸の遺構と復元された南櫓・北櫓・西櫓・東虎口櫓門が見学可能
  • 真田神社(神社)― 上田城跡内に鎮座。真田家を祀る神社で、上田合戦の関連展示も
  • 上田市立博物館(博物館)― 上田城跡公園内。真田氏関連の貴重な史料・甲冑・武具を展示
  • 砥石城跡(城)― 上田城の支城。第一次合戦で真田信幸が守備。武田信玄が攻略に失敗した「砥石崩れ」の城としても有名
  • 矢沢城跡(矢沢公園)(城)― 第一次合戦で矢沢頼康が守備。真田三代の本拠地・真田郷の入口
  • 神川合戦の地(古戦場)― 第一次合戦で真田が徳川軍を撃破した神川渡河点付近
  • 染屋台多目的グラウンド(伝承地)― 第二次合戦で徳川秀忠が本陣を置いた場所と伝わる
  • 九度山 真田庵(善名称院)(流刑地)― 関ヶ原後、真田昌幸・信繁が蟄居した場所(和歌山県)
  • 大安寺(犬伏の別れ伝承地)(寺)― 1600年7月21日、犬伏の別れの伝承が残る寺院(栃木県佐野市)

※ 地図は現代の道路に基づく参考表示です。戦国時代の道路・地形とは異なります。砥石城跡・矢沢城跡は山城跡で、登山装備があると安心です。九度山と犬伏は上田から遠方にあり、別の機会の訪問をおすすめします。


旅行モデルコース ― 真田三代と上田合戦を巡る1日コース

前提条件

  • 所要時間:約6〜7時間(車)
  • 各スポット滞在:30分〜1時間
  • 起点:JR上田駅または上田菅平IC

モデルコース

① 上田城跡公園・真田神社・上田市立博物館(滞在:約2時間)
第一次・第二次両合戦の主戦場。本丸・二の丸の遺構と復元櫓を見学し、博物館で真田氏関連の史料を学ぶ。真田神社で参拝。
– 上田駅から徒歩約15分/上田菅平ICから車で約20分

② 神川合戦の地(滞在:約20分)
第一次合戦で真田が徳川軍を撃破した神川渡河点の伝承地。「神川合戦の地」の碑が建つ。
– 上田城から車で約15分

③ 砥石城跡(滞在:約1〜1.5時間)
真田信幸が第一次合戦で守備した山城。標高約670m、登山道は整備されているが本格的な山城遺構を楽しむには軽登山装備推奨。
– 神川合戦の地から車で約15分(駐車場あり)

④ 矢沢城跡(矢沢公園)(滞在:約30分)
第一次合戦で矢沢頼康が守備した山城。山頂までは約5分の軽い登山。真田郷の入口にあたる。
– 砥石城跡から車で約10分

⑤ 真田氏館跡・真田郷(滞在:約30分)
真田三代発祥の地。真田氏館跡や真田氏歴史館などが点在する歴史エリア。
– 矢沢城跡から車で約5分

対象者別アレンジ

  • 真田三代を巡る派: ②③を省略し、上田城+真田郷(信綱寺・長谷寺など真田一族の墓所)に半日
  • 関連地遠征派: 別日に和歌山県九度山町(真田庵・九度山真田ミュージアム)で蟄居時代を訪問
  • 犬伏の別れ派: 別日に栃木県佐野市の大安寺・新町薬師堂(犬伏の別れ伝承地)を訪問

※ 本プランは一般的な移動速度・滞在時間をもとに作成した参考モデルです。施設の営業時間・交通ダイヤ・混雑状況は季節や曜日によって変動します。お出かけの際は最新情報を各施設・交通機関の公式サイトでご確認ください。

※ 入山料・入館料等は記載時点の参考価格です。変更されている場合があります。

※ 砥石城跡・矢沢城跡の登山は天候や体力に応じて無理のない計画を立ててください。クマ出没情報にも注意してください。

関連する記事

合戦記事

武将記事

  • 真田昌幸 ― 上田合戦の主役。「表裏比興の者」と称された機略の将
  • 真田幸村(信繁) ― 昌幸の次男。第二次合戦で活躍し、後に「日本一の兵」と称される
  • 徳川家康 ― 第一次合戦の主導者。後に天下統一を達成
  • 徳川秀忠 ― 第二次合戦の総大将。後の江戸幕府2代将軍
  • 鳥居元忠 ― 第一次合戦の徳川方総大将。後に伏見城で討死
  • 本多忠勝 ― 徳川四天王の一人。娘・小松姫が真田信幸に嫁いだことで真田家と縁戚
  • 大谷吉継 ― 娘が真田信繁に嫁ぐ。犬伏の別れにおける真田の西軍参加の重要な縁戚

参考情報

一次史料・編纂史料

  • 『真武内伝』― 真田家関係の代表的な軍記物。江戸期成立だが家中の伝承を多く含む
  • 『真田三代記』― 江戸期に流布した真田家の軍記物
  • 『加沢記』『沼田根元記』― 沼田領を巡る真田・北条の戦いを記録
  • 『家忠日記』『三河物語』― 徳川家関係の同時代史料。第一次合戦の徳川側視点
  • 『朝野旧聞裒藁』― 江戸幕府が編纂した徳川家関係史料の集成。第二次合戦の経緯を含む
  • 『森家先代実録』― 森家所蔵の徳川家関係文書。秀忠の上洛命令文書を含む
  • 『真田家文書』『信濃史料』― 真田家関係の文書を網羅

学術書・専門書

  • 平山優『真田信繁 ― 幸村と呼ばれた男の真実』(角川選書、2015年)― 真田家研究の代表的著作
  • 平山優『真田三代』(PHP新書、2011年)― 真田幸隆・昌幸・信繁の三代を通史的に解説
  • 渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか ― 一次史料が語る天下分け目の真実』(PHP新書、2019年)― 秀忠遅参問題の通説見直し
  • 黒田基樹『真田一族と家臣団のすべて』(KADOKAWA、2016年)
  • 柴辻俊六『真田昌幸』(吉川弘文館、1996年)― 学術的な昌幸伝
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社新書、2015年)
  • 笹本正治『戦国大名武田氏と地域社会』(岩田書院、2014年)― 真田と武田・徳川の関係を地域史視点で分析

公的機関資料

  • 上田市立博物館 ― 上田合戦関連の常設展示と特別展示
  • 上田城跡公園公式サイト(上田市文化財課)
  • 長野県立歴史館 ― 信濃国の戦国期史料を所蔵
  • 九度山真田ミュージアム ― 真田昌幸・信繁の蟄居時代の資料を展示(和歌山県)
  • 上田市デジタルアーカイブ「上田城下町絵図アーカイブ」

※本記事は上記の史料・研究書・論文およびWeb上の複数の情報源をもとに構成しています。歴史の解釈には研究者の間でも見解が分かれる部分があり、今後新たな史料の発見や研究の進展によって定説が変わる可能性があります。

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