北条早雲とは|「素浪人の下剋上」は誤りだった、幕府エリート伊勢宗瑞の実像
後北条氏五代の祖にして、戦国大名の先駆け。しかしその出自も生年も、下剋上という物語も、近年の研究で大きく塗り替えられた。伊豆討ち入りから小田原奪取、三浦氏滅亡までを諸説併記で読み解く。
3点でわかる北条早雲
- 「北条早雲」と名乗ったことは一度もない。生前の署名は「伊勢新九郎」「伊勢宗瑞」であり、諱は盛時とするのが現在の定説である。北条姓を称したのは死後、嫡男・北条氏綱の代からであった。
- 素浪人ではなく、幕府の高級官僚だった。室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の一族で、備中荏原荘(現・岡山県井原市)に所領を持つ領主。9代将軍・足利義尚の申次衆を務めた。伊豆討ち入りも、幕府の政変と連動した行動であったとみられている。
- 戦国大名の先駆けと評価される。明応2年(1493年)に伊豆へ討ち入り、韮山城を拠点に伊豆一国を平定。小田原城を得て相模へ進み、永正13年(1516年)に名族・三浦氏を滅ぼして相模を制圧した。永正3年(1506年)の相模での検地は、戦国大名による検地として最古の事例とされる。
本筋説:幕府官僚から関東の覇者へ
北条早雲ほど、近年の研究によって像が塗り替えられた戦国武将はいない。かつては「一介の素浪人が老境に入ってから身を起こし、実力で関東を切り取った下剋上の典型」として語られていた。しかし1950年代以降の史料検証により、その出自は室町幕府の要職を務めた伊勢氏の一族であることがほぼ確定し、1990年代には生年についても24歳若い新説が提示された。ここでは、現在の研究で確からしいとされる線に沿って生涯をたどる。なお本文では、生前の呼称に従って原則「宗瑞」と記す。
備中伊勢氏の出身
伊勢氏は桓武平氏の流れを汲むとされ、室町幕府の政所執事を代々務めた家柄である。宗瑞の父は伊勢盛定。備中国荏原荘の半分を領する領主で、所領は300貫といわれる。盛定は政所執事・伊勢貞親の妹婿にあたり、8代将軍・足利義政の申次衆を務めた。母は京都伊勢氏当主・伊勢貞国の娘とされる。
生年は長らく永享4年(1432年)とされてきたが、近年は康正2年(1456年)説が有力である(諸説②参照)。生誕地も、備中荏原荘とする見方と京都とする見方があり確定していない。
荏原荘には、文明3年(1471年)付で「平盛時」と署名した禁制が残されている。法泉寺(岡山県井原市)に伝わるこの文書は備中伊勢氏出身説を裏づける史料とされ、「法泉寺文書 附 伊勢盛時禁制札」として岡山県の指定重要文化財となっている。井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑が建つ。
なお、備中荏原荘からは内藤氏、笠原氏、平井氏、山中氏、井上氏など、後の後北条氏家臣が出ている。宗瑞の関東進出は備中時代からの人的基盤を伴うものであった。
姉・北川殿と今川家
応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると、駿河守護・今川義忠は上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親のもとを訪れており、その申次を務めていたのが盛定である。その縁で、盛定の娘、すなわち宗瑞の姉妹にあたる北川殿が義忠と結婚したと考えられている。
宗瑞が素浪人とされていた時代、北川殿は側室であろうと見られていた。しかし備中伊勢氏は今川氏と家格に遜色がないため、近年では正室と考えられている。文明5年(1473年)、北川殿は龍王丸、後の今川氏親を生んだ。
今川家の家督争いへの介入
文明8年(1476年)、今川義忠が遠江の塩買坂で国人の襲撃を受けて討ち死にする。残された嫡男・龍王丸は幼少であったため、今川氏の家臣らが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立し、家督争いで家中が二分された。
ここに扇谷上杉家と堀越公方・足利政知が介入し、それぞれ家宰の太田道灌と執事の上杉政憲が兵を率いて駿河へ出兵する。扇谷上杉家当主・上杉定正は範満の父方の縁者にあたり、道灌も史料に範満の「合力」と記されている。龍王丸方にとって情勢は不利であった。
北川殿は京都にいた弟の宗瑞を頼り、宗瑞は駿河へ下って調停を行い、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた、と伝えられる。両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓ったという。範満が駿河館に入り、龍王丸は北川殿とともに小川城(現・静岡県焼津市)に身を寄せた。
この調停は、かつては宗瑞の知略による立身出世の第一歩とされてきた。現在では幕府の命により駿河守護家の家督相続に介入すべく下向したとする説が有力である。一方で、宗瑞がこの調停を行ったという説自体に疑問を呈する研究者もいる(諸説③参照)。
幕府官僚としての宗瑞
家督争いが収まると宗瑞は京都へ戻った。「伊勢新九郎盛時」の名が文書に現れるのは文明13年(1481年)からで、文明15年(1483年)に9代将軍・足利義尚の申次衆に任命され、長享元年(1487年)には奉公衆となっている。同じころ、幕府奉公衆・小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚し、長享元年(1487年)に嫡男・氏綱が生まれた。
なお、この時期の宗瑞が借金問題を抱え、訴訟に至ったとする説もある。この件が東国下向の一因となった可能性が指摘されている。
今川氏親の擁立
文明11年(1479年)、前将軍・義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出した。ところが龍王丸が成人しても、小鹿範満は家督を戻そうとしなかった。
北川殿は再び宗瑞を頼り、長享元年(1487年)、駿河へ下向した宗瑞は石脇城(現・静岡県焼津市)に入って同志を集めた。この時点で太田道灌は主君・上杉定正に誅殺されて既になく、上杉政憲も足利政知と不仲になっており、範満を支持する外部勢力は消えていた。
同年11月、宗瑞は兵を起こして今川館を襲撃し、範満とその弟を自害させる。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り、正式に今川家当主となった。この一連の動きは足利義尚や足利政知の承認を得ていたものと考えられている。
宗瑞は伊豆との国境に近い富士下方に所領を与えられ、興国寺城(現・静岡県沼津市)に入ったとされる。ただし興国寺城拝領については史料の確認が取れないとして、善得寺城とする説、そのまま石脇城を居城としたとする説もある。駿河に留まった宗瑞は氏親の後見役を務め、守護代の出す打渡状を発行していることから、駿河守護代の地位にあったとも考えられている。
同時期に、宗瑞は堀越公方・足利政知の直臣としても出仕し、伊豆国田中郷・桑原郷を所領として与えられている。延徳3年(1491年)4月に政知が死去すると、宗瑞は5月には再び申次衆として10代将軍・足利義材の幕府に復帰した。
伊豆討ち入り
堀越公方家では、政知の死後に家督争いが起きていた。政知には長男の足利茶々丸のほか、側室・円満院との間に清晃(のちの足利義澄)と潤童子がいた。茶々丸は素行不良のため廃嫡され、潤童子が後継とされていたが、延徳3年(1491年)7月、茶々丸は土牢を脱して潤童子とその母・円満院を殺し、事実上の公方となる。
明応2年(1493年)4月、管領・細川政元が明応の政変を起こして将軍・義材を追放し、清晃を擁立した。清晃は還俗して将軍となる。権力を握った義澄は、母と弟の敵討ちを、幕臣であり茶々丸の近隣に城を持つ宗瑞に命じたとされる。
同年の夏か秋ごろ、宗瑞は伊豆の堀越御所にいた茶々丸を攻撃した。これを伊豆討ち入りといい、この時期をもって東国の戦国期が始まったと考えられている。伊豆の豪族である鈴木繁宗、松下三郎右衛門尉らがいち早く宗瑞に参じた。
後世の軍記物では、宗瑞が修善寺に湯治と称して入り伊豆の世情を探ったこと、手勢200人と氏親に借りた300人が10艘の船で清水浦を出て西伊豆に上陸し、堀越御所を急襲して火を放ったことなどが描かれる。ただし近年では、この討ち入りが中央政治と連動した行動であったことが明らかになっている(諸説④参照)。
伊豆平定と統治
宗瑞はこの後、伊豆国韮山城(現・静岡県伊豆の国市)を新たな居城として伊豆の統治を始めた。伊豆の領国化は、茶々丸討伐への功賞として認められたのではないかとする見方がある。
統治にあたり、宗瑞は高札を立てて、味方に参じれば本領を安堵し、参じなければ作物を荒らし住居を破壊すると布告した。一方で兵の乱暴狼藉を厳禁し、病人を看護するなど善政を施したと伝わる。重い税制を改めて四公六民の租税を定め、「伊豆一国は30日で平定された」といわれる。ただしこの施策を、明応7年(1498年)の明応の大地震の被災者救済策とみる考えもある。
軍記物では討ち入りの際に自害したとされる茶々丸は、実際には逃げ延びていた。関戸氏、狩野氏、土肥氏ら伊豆の諸勢力、さらには甲斐の武田氏に擁せられ、数年にわたって抵抗を続けている。宗瑞は伊豆の国人を味方につけながら茶々丸方を追い込み、明応7年(1498年)8月に南伊豆の深根城(現・静岡県下田市)を落として、5年かけてようやく伊豆を平定した。茶々丸を討った場所については甲斐国とする説と深根城とする説がある。
伊豆平定と並行して、宗瑞は今川氏の武将としても活動を続けた。明応3年(1494年)ごろから今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻し、中遠まで制圧している。
小田原城の奪取
明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃した。扇谷家の上杉定正は宗瑞に援軍を依頼し、宗瑞は扇谷側として関東管領・上杉顕定の軍と対峙するが、定正が落馬して死去したため撤兵している。この年、扇谷家を支えていた上杉定正、三浦時高、大森氏頼の三人が相次いで死去した。
宗瑞は茶々丸の討伐を大義名分として明応4年(1495年)に甲斐へ攻め込み、守護・武田信縄と戦っている。同年9月、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取したとされる。
『北条記』は、この奪取を有名な「火牛の計」の物語として伝えている。宗瑞は藤頼にたびたび進物を贈って親交を深め、ある日、箱根山での鹿狩りのために領内へ勢子を入れさせてほしいと願い出た。藤頼は快く許す。その夜、千頭の牛の角に松明を灯した伊勢氏の兵が小田原城へ迫り、箱根山に伏せていた兵が鬨の声を上げて火を放った。数万の兵が攻め寄せたと怯えた城内は大混乱となり、藤頼は逃げ出したという。ただしこれは典型的な城盗り物語であり、類似の話は他の武将にも伝わる(諸説⑤参照)。
小田原城奪取の年次については史料によって異なり、明応4年より後とする説もある。明応10年(文亀元年/1501年)3月28日に宗瑞が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の一村と交換した文書が残されており、この時点では伊勢氏が小田原城を領有していたとみられている。
明応8年(1498年)、宗瑞は甲斐で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功した。
相模進出と両上杉家との抗争
文亀年間(1501年〜1504年)には今川氏の武将として三河にまで進むが、『柳営秘鑑』によれば文亀元年9月に岩津城下で松平長親(徳川家康の高祖父)に敗れ、三河侵攻は失敗に終わったという。
その後、宗瑞は相模方面へ本格的に転進する。関東進出の画期となったのが、永正元年(1504年)8月の武蔵立河原の戦いである。扇谷家当主・上杉朝良に味方した宗瑞は、氏親とともに出陣して山内顕定に勝利した。
しかし顕定は越後守護・上杉房能と守護代・長尾能景の来援を得て反撃に出る。相模へ乱入して扇谷家の諸城を攻略し、翌永正2年(1505年)、河越城に追い込まれた朝良は降伏した。これにより伊勢氏は、山内・扇谷の両上杉家と敵対することになる。
永正3年(1506年)、宗瑞は相模で検地を実施した。在地領主に土地面積・年貢量を申告させる指出検地で、戦国大名による検地としては最古の事例とされている。
永正4年(1507年)、管領・細川政元が暗殺される「永正の錯乱」が起き、越後守護・上杉房能も守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺される。永正5年(1508年)には足利義稙が大内義興の軍勢とともに京へ返り咲いた。中央の変動により幕府からの圧迫がなくなると、宗瑞は為景や長尾景春と結んで顕定を牽制する。
永正6年(1509年)以降、今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、宗瑞は相模進出に集中していく。ただし少なくとも永正9年(1512年)ごろまで駿府への訪問が確認でき、今川氏との関係は続いていたとみられる。
三浦氏の滅亡と相模平定
永正6年7月、顕定が大軍を率いて越後へ出陣すると、宗瑞はその隙を突いて扇谷上杉家の本拠・江戸城に迫った。翌永正7年(1510年)にかけて武蔵・相模で戦うが、山内家の援軍を得た扇谷家の反撃を受け、三浦義同(道寸)が伊勢氏方の要害を攻略して小田原城まで迫ったため、宗瑞は扇谷家との和睦で切り抜けている。同年6月、越後の顕定は長尾為景の逆襲を受けて敗死し、関東は新たな混乱期に入った。
三浦氏は相模の名族で、源頼朝の挙兵に参じ鎌倉幕府創立の功臣となった一族である。このころの三浦氏は扇谷家に属し、当主・義同が相模中央部の岡崎城を本拠とし、三浦半島の城を子の三浦義意が守っていた。
態勢を立て直した宗瑞は、永正9年(1512年)8月に岡崎城を攻略し、義同を住吉城へ敗走させ、さらに住吉城も落とした。義同は義意の守る三崎城へ逃げ込む。宗瑞は鎌倉を占領して相模の支配権をほぼ掌握し、扇谷朝興の救援も退けた。同年10月には三浦氏攻略のため、鎌倉に玉縄城を築いている。
義同は次第に三浦半島へ封じ込められ、扇谷家の救援もことごとく撃退された。永正13年(1516年)7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが宗瑞はこれを打ち破り、義同・義意父子の籠る城に攻め寄せる。激戦の末に義同は自害、義意は討ち死にし、名族三浦氏は滅亡。伊勢氏が相模全域を平定した。
その後は上総の真里谷武田氏を支援して房総半島に渡り、翌永正14年(1517年)まで転戦している。
領国支配の先駆けと死
宗瑞は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、その点から戦国大名の先駆けと評価されている。『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定めたと伝えられ、これは分国法の祖形とされる。ただしこの家法の成立時期は明らかでなく、宗瑞の制定によるとするのは現在のところ所伝にとどまる(諸説⑥参照)。
死の前年から、伊勢氏は虎の印判状を用いるようになった。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を止める体制が整えられている。これを、独自の公権力を発揮し始めたことを示すものと評価する見方もある。ただし宗瑞の姉で氏親の母である北川殿はまだ健在であり、宗瑞自身は最後まで今川氏の家臣としての立場を棄てることはなかったと思われる。
永正15年(1518年)、宗瑞は家督を嫡男・氏綱に譲った。翌永正16年(1519年)8月15日、死去。法号は早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門。後嗣の氏綱は2年後に菩提寺として早雲寺(神奈川県箱根町)を創建させている。
宗瑞の後を継いだ氏綱は北条氏を称して武蔵国へ領国を拡大した。以後、北条氏康、北条氏政、氏直と勢力を伸ばし、五代にわたって関東に覇を唱えることになる。
諸説あります。──北条早雲をめぐる6つの論点
北条早雲をめぐる語りには、三つの層がある。江戸時代前期までの理解、江戸中期以降に『太閤記』の影響で形成された「下剋上の梟雄」像、そして1950年代以降の史料検証にもとづく現在の研究である。二番目の層があまりに強固だったため、素浪人からの立身出世という物語は明治以降に定着し、戦後まで通説として生き続けた。以下では、特に見解が分かれる6つの論点を取り上げる。
※以下は研究者の指摘や史料間の相違にもとづく「諸説」です。確定した事実ではなく、見方が分かれている論点として整理しています。
諸説①出自をめぐる諸説
宗瑞の出自については長らく明らかにならず、伊豆韮山説、大和在原説、山城宇治説、伊勢素浪人説、京都伊勢氏説、備中伊勢氏説と、実に六つもの説が並立していた。
伊豆韮山説と伊勢氏説は、江戸時代の狭山藩北条家と幕臣の伊勢家がそれぞれ伝承してきたもので、両者に食い違いがあることは古くから問題視されていた。『寛政重修諸家譜』の編者・林述斎は、両家の系図を比較して京都伊勢氏説を正しいとしている。大和在原説と山城宇治説は『北条五代記』に異説として紹介されたもので、有力視はされなかった。
伊勢説は『北条記』『相州兵乱記』に記され、宗瑞が信濃守護・小笠原定基に宛てた書状で、小笠原家臣の関右馬允春光について「伊勢の関氏で自分の同族」と書いていたことを根拠に、1901年に藤岡継平が伊勢出身の地方武士とする説を主張した。田中義成や海音寺潮五郎がこれを支持し、一般には「伊勢素浪人」という像が定着する。一方、研究者の間では渡辺世祐が主張した京都伊勢氏説(伊勢貞親の弟・貞藤の子とする)が有力視されていた。
転機となったのは1956年である。井原市法泉寺の古文書を調査した藤井駿が、宗瑞を備中伊勢氏で将軍・足利義尚の側近であった「伊勢新九郎盛時」とする論文を発表した。1980年前後に奥野高広、今谷明、小和田哲男が史料調査の結果として同様の論文を発表し、その後、有効な反論も出ずにほぼ定説化する。備中説はもともと江戸時代前期成立の『今川記』および『太閤記』に書かれていたもので、研究が江戸前期の理解に戻ったことから「本卦返り」と呼ばれている。
なお、京都伊勢氏説の中心であった「伊勢貞藤の子」説については、寛正6年(1466年)の遠江今川氏所領没収問題で貞藤と今川義忠・伊勢盛定が対立関係にあったこと、貞藤が応仁の乱で西軍に属したことなどから、その後の宗瑞の経歴と整合しないとして成立しがたいとされている。
諸説②生年と享年をめぐる諸説
生年は江戸時代以来、子年生まれの永享4年(1432年)が定説とされ、享年88とされてきた。この場合、駿河に下向して長男・氏綱が生まれた時点で数え56歳、伊豆討ち入りの時点で62歳となる。晩年には80歳を過ぎて自ら兵を率いていたことになり、小説家や評論家は宗瑞を「大器晩成」の典型として好んで取り上げてきた。
しかし、この年齢設定には早くから疑問が呈されていた。江戸時代前期の史料で姉とされる北川殿が今川義忠と結婚した応仁元年(1467年)に、宗瑞は36歳になる計算になる。姉だとすると当時の女性としては晩婚に過ぎるため、明治以降は享年88説に合わせて「歳の離れた妹」とされていた。
1995年、黒田基樹は享年88が江戸時代中期以降の系図類から出たもので、江戸前期の史料には存在しないことを明らかにした。永享4年生まれだと、父・盛定の活動時期とも、伊勢貞親の甥という系譜関係とも整合しなくなる。さらに黒田は、北条氏照の旧臣で宝蔵寺(埼玉県朝霞市)の開基となった高橋家の過去帳に、宗瑞を伊勢盛定の子・新九郎盛時で享年64とする記述があることを確認した。現存のものは1950年代の書写だが、信頼性の高い高野山高室院「北条氏系図」と記述の重なる部分が一致することから、黒田はこれを信頼できると判断している。
黒田は、これまで宗瑞と思われてきた伊勢貞藤の生年と混同された結果であるとし、江戸前期成立の軍記物に「子の年」生まれと記載されていること、姉の結婚時期を考え合わせて、24歳若い康正2年(1456年)生まれであろうとした。この場合、北川殿の結婚時に11歳ごろ、駿河下向時点で32歳、享年64となり、当時の人間の活動として妥当な年齢となる。
ただしこの説はなお検討中の段階であり、享年88説を採る研究者もいる。小田原市の北条五代観光推進協議会は両説を併記しており、『広辞苑』第七版は「伊勢盛時」の項目に解説を移しつつ、生年については享年88説を採用している。
諸説③今川家督相続への介入をめぐる諸説
文明8年(1476年)の今川義忠戦死後、宗瑞が駿河へ下って調停を行い、龍王丸の家督を将来に確保したという話は、宗瑞の知略による立身出世の第一歩として長く語られてきた。
これに対し現在では、宗瑞が幕府の命により駿河守護家の家督相続に介入すべく下向したものであるとする説が有力である。宗瑞個人の才覚というより、幕府の意思を代行する官僚としての行動であったという理解になる。
さらに黒田基樹は、新説にもとづく推定年齢の若さ(当時20歳)と、この事件を記す『鎌倉大草紙』に宗瑞の名が見えないことから、宗瑞が調停を行ったという説自体の信憑性に疑問を呈している。もし調停が事実でないとすれば、宗瑞の「第一歩」は長享元年(1487年)の駿河下向まで下ることになる。
なお長享元年の今川館襲撃と小鹿範満討伐については、足利義尚や足利政知の承認を得ていたものと考えられており、この点でも宗瑞の行動は幕府の枠内にあった。
諸説④伊豆討ち入りの性格をめぐる諸説
明応2年(1493年)の伊豆討ち入りは、従来、旧勢力が滅び新興勢力が勃興する下剋上の嚆矢とされ、荒廃した京都を捨てて関東の沃野に志を立てた行動と説明されてきた。
しかし近年の研究では、この討ち入りが中央の政治と連動していたことが明らかになっている。同じ年の4月に細川政元が明応の政変を起こし、清晃(足利義澄)を擁立した。義澄にとって茶々丸は母と弟を殺した仇であり、その討伐を幕臣である宗瑞に命じたとされる。つまり伊豆討入りは、足利義澄や細川政元の命により、幕府の承認のもとで行われたとみられる。
宗瑞の出家時期も、この文脈で議論されている。明応2年5月までは「伊勢新九郎」の文書が残るが、明応4年(1495年)の史料では「早雲庵宗瑞」と法名になっており、この間に出家したとみられる。理由については、清晃の母・円満院の横死を悼んだとする見方と、伊豆乱入に伴う幕府奉公衆からの退任を意味するとする見方がある。
伊豆の平定に5年を要した点も、通説の「30日で平定」という理解とは異なる。茶々丸は逃げ延びて伊豆の諸勢力や甲斐武田氏に擁せられ、抵抗を続けた。明応7年(1498年)8月25日の明応の大地震で深根城一帯も甚大な被害を受け、抵抗不可能になった茶々丸を少数の手勢で討ち取ったとみられている。宗瑞が高札で示した善政も、この地震の被災者救済策とみる考えがある。
なお東国戦国期の始期については、伊豆討ち入りを画期とする見解のほか、享徳3年(1454年)に始まった享徳の乱を始期とする見解もある。
諸説⑤小田原城奪取をめぐる諸説
『北条記』が伝える「火牛の計」による小田原城奪取は、典型的な城盗り物語である。同様の話は織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にも見られ、どこまで事実かは分からない。火牛の計そのものは中国戦国時代の斉の将軍・田単が用いた戦術で、教養を持つ知識層には知られていた。実際に用いられたのか、武勇伝作りに利用されたのかは判断できない。
一方、金子浩之は、土石流を「牛」になぞらえた伝承があるという笹本正治の説を踏まえ、明応地震の津波に乗じて小田原城を攻めた結果、津波が「牛」と呼ばれるようになったのではないかと推測している。ただしこの説は、小田原城攻めが1495年でなければ成立しない。
年次についても議論がある。通説は明応4年(1495年)9月とするが、黒田基樹は、明応5年(1496年)に山内家が小田原城と思われる要害を攻撃した際、山内顕定の書状に扇谷家の守備側として大森藤頼と宗瑞の弟・弥二郎の名が見えることを根拠に、奪取はそれ以降ではないかとしている。『小田原市史』で同項を執筆した佐藤博信も同様の見解を採り、あわせて宗瑞の子・幻庵が大森氏出身の海実から箱根権現別当の地位を譲られたこと、享徳の乱のころ大森氏に内紛があったことを指摘し、伊勢氏の進出は大森氏の内情に乗じたものと推定している。
奪取の動機についても見方が変わっている。従来は同じ扇谷方の大森氏を宗瑞が騙し討ちしたとされてきたが、近年では、大森藤頼が山内上杉氏に寝返ったための行動と考えられている。義澄―細川政元―今川氏親―宗瑞の陣営と、足利義稙―大内政弘―足利茶々丸―武田信縄―上杉顕定の陣営という、明応の政変による対立構図のなかでの軍事行動という理解である。
諸説⑥「下剋上の典型」像の形成をめぐる諸説
江戸時代前期までは、『寛永諸家系図伝』などで後北条氏は執権北条家の嫡流の末裔、もしくは名門伊勢氏の出と考えられていた。ところが江戸中期以降、『太閤記』の影響で戦国時代を「身分の低い者が実力で身を興す下剋上の時代」と捉える考えが、民衆の願望ともあいまって形成される。この見方は明治になって定着し、戦後まで続いた。
その下剋上を代表する梟雄として、宗瑞は斎藤道三、松永久秀とともに挙げられ、身分の低い素浪人とすることが巷談での通説となった。作家たちは、身分が低く人生の辛酸を舐め、十分に老成した人間でなければ宗瑞のような活躍はできないと長年論じてきた。
1980年代に出自がほぼ定説化し、1990年代に生年の新説が提示された以降の小説やメディアでは、これらの新説も扱われるようになった。司馬遼太郎『箱根の坂』(1984年)は当時の研究を反映して備中伊勢氏としつつ、年齢については享年88説で「大器晩成」を描いている。2000年代以降の作品では、名門伊勢氏出身の幕府高級官僚とし康正2年生まれ説を採るものが増えた。ただし2000年代以降でも、旧来の像で「中高年の再挑戦の見本」として報じるテレビ番組や作家も残っている。
『早雲寺殿廿一箇条』についても同様の注意が必要である。分国法の祖形とされ、宗瑞の家法として紹介されることが多いが、その成立時期は明らかでなく、宗瑞の制定によるとするのは現在のところ所伝にすぎない。
一方で、宗瑞を「戦国大名の先駆け」と評価する根拠は、物語ではなく施策にある。永正3年(1506年)の指出検地は戦国大名による検地として最古の事例であり、虎の印判状による徴収体制の整備も、領国支配の制度化として具体的に確認できる。下剋上の梟雄という像を外したとき、残るのはむしろ制度設計者としての姿である。
戦略的に見ると
宗瑞の行動を一貫して説明する鍵は、「中央とのつながりを資源として使い切った」という点にある。伊豆討ち入りは足利義澄・細川政元の意向を背景とし、今川館襲撃は将軍と堀越公方の承認を得ていた。素浪人の下剋上という物語を外すと、そこに現れるのは、幕府の権威を軍事行動の正当性に変換し続けた官僚出身者の姿である。
その資源には有効期限があった。永正年間に入ると幕府の政局は急速に流動化する。細川政元の暗殺、上杉房能の横死、足利義稙の帰洛。これらの変動は宗瑞への圧迫を取り除くと同時に、後ろ盾としての中央の価値も失わせた。永正6年(1509年)以降、宗瑞が相模進出に集中していくのは、この転換に対応している。
その自前の支配を支えたのが、制度としての領国経営であった。永正3年(1506年)の指出検地は、在地領主に土地面積と年貢量を申告させるもので、把握なくして動員なしという原則を先取りしている。晩年に導入された虎の印判状は、印判のない徴収命令を無効とすることで、郡代・代官による中間搾取を遮断した。これは百姓・職人の保護であると同時に、家臣が独自に収奪する回路を断って権力を当主に集中させる仕組みでもある。関東の他勢力がまだ守護・国人の連合という枠組みで動いていた時期に、この二つを実施していた点が「戦国大名の先駆け」という評価の実質である。
軍事面では、相手の内部分裂を待ってから動く慎重さが目立つ。小鹿範満の討伐は範満の後ろ盾が消えた時点で実行され、小田原奪取は大森氏の内紛を背景とし、江戸城への進出は顕定の越後出陣という空白を突いている。三浦氏攻めは岡崎城攻略から滅亡まで4年を要した。速さではなく、機を待って確実に削る戦い方である。
一方で、宗瑞は最後まで今川氏の家臣という立場を棄てなかったとみられている。姉の北川殿が健在であったこと、関東の諸勢力に対抗するうえで足利一族である今川氏の権威が必要であったことが背景にある。北条姓を称して独立した大名家として立つのは、次代の氏綱の仕事となった。宗瑞の生涯は、幕府の官僚が地域権力へ転化していく過渡期そのものであり、その過渡的な性格こそが、この人物を単純な「下剋上の英雄」に収まらないものにしている。
名言・言葉
※以下には、成立時期が明らかでない家法や、後世の軍記物に由来する言葉が含まれます。宗瑞自身の言葉として確定しているものではない点にご留意ください。
宗瑞自身の言葉として確実に伝わるものは多くない。代わりに残っているのは文書と制度である。備中荏原荘の禁制、伊豆の高札、永正3年の検地、晩年の虎の印判状。いずれも「誰が何をしてよく、何をしてはならないか」を明示する文書であり、その積み重ねが後北条氏五代の統治の基礎となった。
逸話・エピソード集
「北条早雲」は死後の呼び名
宗瑞が生前に「北条早雲」と名乗ったことは一度もない。署名は「伊勢新九郎」「伊勢宗瑞」などであり、北条姓を称したのは死後、嫡男・氏綱の代からである。諱についても長らく不確定で、長氏・氏茂・氏盛などと伝えられ、近代に作られた小田原の碑文には「伊勢新九郎長氏」と刻まれた。1990年代後半から盛時が最有力となり、現在では「伊勢新九郎盛時」が定説となっている。
本来の仮名は「八郎」だった可能性
宗瑞の通称は新九郎として知られるが、『尊卑分脈』では「八郎盛時」と書かれ、「伊勢家書」にも足利義尚の御供をした人物として「伊勢八郎盛時」の記載がある。本来の仮名は八郎であったとも考えられている。
備中に残る禁制札
宗瑞の史料上の初見は、文明3年(1471年)に備中荏原荘の法泉寺へ下した禁制である。「平盛時」と署名され、寺への乱入狼藉、山中での竹木伐採、寺域での殺生の三点を禁じている。伊勢氏は桓武平氏の末裔とされるため本姓は平氏であり、「平盛時」の署名はこれによる。この禁制札は岡山県の指定重要文化財となっているが、非公開である。
備中から関東へ渡った家臣たち
備中荏原荘からは、内藤氏、笠原氏、平井氏、山中氏、井上氏など、後の後北条氏家臣となる一族が出ている。宗瑞の関東進出が単身の冒険ではなく、備中時代からの人的基盤を伴うものであったことを示す。素浪人説では説明のつかない事実である。
神水を酌み交わした六人
『北条記』『名将言行録』には、駿河下向の際に大道寺太郎(重時)、荒木兵庫、多目権兵衛、山中才四郎、荒川又次郎、在竹兵衛の六人と伊勢で神水を酌み交わし、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が伝わる。この六人は後に「御由緒六家」と呼ばれた。大志を抱く素浪人にふさわしい物語として語られてきたが、近年の研究では、彼らの多くは父・盛定の代からの譜代家臣の子弟であったと考えられている。
薩埵峠の出会い
『公方両将記』には、陸奥へ下ろうとしていた宗瑞が駿河の薩埵峠で盗賊に遭って難渋していたところ、守護の奥方の輿と出会って衣服を与えられ、それが縁で今川氏に仕えるようになった、という話が載る。その奥方が北川殿であったという筋立てで、素浪人像を前提とした典型的な立志伝である。
「火牛の計」の類話
小田原城奪取に用いられたという火牛の計は、織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にも同種の話がある、典型的な城盗り物語である。もとは中国戦国時代の斉の将軍・田単が用いた戦術で、教養層には知られていた。実際に用いられたのか、後から武勇伝として付け加えられたのかは判断できない。
三人の妻と四男二女
宗瑞には三人の妻と四男二女があったことが確認されている。正室は幕府奉公衆・小笠原政清の娘で法名を南陽院殿といい、永正3年(1506年)に没した。ほかに葛山氏の娘、善修寺殿が側室として知られる。長男が氏綱、四男が北条幻庵である。なお男子を3名とする説もある。
箱根に眠る五代
宗瑞の死後2年、氏綱は菩提寺として早雲寺(神奈川県箱根町湯本)を創建させた。境内には後北条五代の墓が並ぶ。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅んだ後も、その名を冠した寺として現在に伝わっている。
時系列で見る北条早雲の生涯
※年齢は康正2年(1456年)生まれ・享年64説にもとづく数え年です。享年88説を採る場合、いずれも24を加えた年齢となります。
| 年(西暦) | できごと |
|---|---|
| 康正2年 (1456) | 伊勢盛定の子として生まれる(近年有力視される説)。生誕地は備中荏原荘とも京都とも。 |
| 応仁元年 (1467) | 応仁の乱が起こる。このころ姉妹の北川殿が駿河守護・今川義忠と結婚。 |
| 文明3年 (1471) | 備中荏原荘の法泉寺に禁制を下す。「平盛時」署名。史料上の初見。 |
| 文明5年 (1473) | 北川殿が龍王丸(後の今川氏親)を生む。 |
| 文明8年 (1476) | 今川義忠が遠江・塩買坂で討ち死に。今川家の家督争いが起こる。 |
| 文明13年 (1481) | 「伊勢新九郎盛時」の名が文書に現れる。 |
| 文明15年 (1483) | 9代将軍・足利義尚の申次衆に任命される。 |
| 長享元年 (1487) | 奉公衆となる。駿河へ下向し石脇城に入る。11月、今川館を襲撃して小鹿範満らを自害させ、龍王丸を擁立。同年、嫡男・氏綱が誕生。 |
| 延徳3年 (1491) | 4月、堀越公方・足利政知が死去。7月、足利茶々丸が潤童子と円満院を殺害。宗瑞は申次衆として幕府に復帰。 |
| 明応2年 (1493) | 4月、細川政元が明応の政変。夏か秋、伊豆討ち入り。堀越御所を襲撃。東国戦国期の始まりとされる。 |
| 明応3年 (1494) | 長享の乱が再燃。扇谷上杉家に加勢。このころ今川氏の兵を率いて遠江へ侵攻。 |
| 明応4年 (1495) | 甲斐へ攻め込み武田信縄と戦う。9月、小田原城を奪取したとされる(年次に諸説あり)。このころ出家し「早雲庵宗瑞」と称する。 |
| 明応7年 (1498) | 8月、明応の大地震。深根城を落として伊豆を平定。甲斐で足利茶々丸を討つ(深根城とする説もあり)。 |
| 文亀元年 (1501) | 三河へ侵攻するが岩津城下で松平長親に敗北。この年までに小田原城を領有していたことが文書から確認できる。 |
| 永正元年 (1504) | 8月、武蔵・立河原の戦い。氏親とともに出陣し山内顕定に勝利。 |
| 永正2年 (1505) | 扇谷上杉朝良が河越城で降伏。以後、伊勢氏は両上杉家と敵対する。 |
| 永正3年 (1506) | 相模で指出検地を実施。戦国大名による検地の最古例とされる。正室・南陽院殿が死去。 |
| 永正6年 (1509) | 顕定の越後出陣の隙を突いて江戸城に迫る。以後、相模進出に集中。 |
| 永正9年 (1512) | 8月、岡崎城を攻略し三浦義同を敗走させる。鎌倉を占領。10月、玉縄城を築く。 |
| 永正13年 (1516) | 7月、三浦義同・義意父子を滅ぼし、相模全域を平定。 |
| 永正14年 (1517) | 上総の真里谷武田氏を支援して房総半島に渡り転戦。 |
| 永正15年 (1518) | 家督を嫡男・氏綱に譲る。前年ごろから虎の印判状の使用が始まる。 |
| 永正16年 (1519) | 8月15日、死去。法号は早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門。2年後、氏綱が早雲寺を創建。 |
家系・人物相関
| 人物 | 続柄・関係 | 関わり |
|---|---|---|
| 伊勢盛定 | 父 | 備中荏原荘を領する幕府申次衆。政所執事・伊勢貞親の妹婿で、8代将軍・足利義政に近侍した。 |
| 伊勢貞親 | 伯父(母方) | 幕府政所執事。今川義忠がしばしば訪れ、その申次を盛定が務めたことが北川殿の縁組につながった。 |
| 北川殿 | 姉(妹とする説も) | 今川義忠の室。近年は正室とみられる。夫の死後、二度にわたり宗瑞を頼って今川家の家督問題に関与させた。享禄2年(1529年)没。 |
| 今川義忠 | 義兄 | 駿河守護。文明8年(1476年)に遠江で討ち死にし、今川家の家督争いを招いた。 |
| 今川氏親 | 甥 | 北川殿の子・龍王丸。宗瑞の擁立により今川家当主となり、以後、宗瑞と連携して領国を拡大した。 |
| 小鹿範満 | 敵対勢力 | 今川義忠の従兄弟。家督代行の座に留まり続けたが、長享元年(1487年)に宗瑞に討たれた。 |
| 南陽院殿 | 正室 | 幕府奉公衆・小笠原政清の娘。氏綱の母。永正3年(1506年)7月に死去。 |
| 北条氏綱 | 嫡男 | 長享元年(1487年)生。永正15年に家督を継ぎ、北条姓を称して武蔵へ領国を拡大した。 |
| 北条幻庵 | 四男 | 箱根権現別当を大森氏出身の海実から譲られた。後北条氏の長老として五代にわたり一族を支えた。 |
| 足利政知 | 主筋 | 堀越公方。宗瑞は直臣として出仕し、伊豆国田中郷・桑原郷を与えられた。延徳3年(1491年)死去。 |
| 足利茶々丸 | 敵対勢力 | 政知の長男。廃嫡後に継母と異母弟を殺して公方となる。伊豆討ち入りの標的となり、明応7年に討たれた。 |
| 足利義澄 | 主筋 | 政知の子・清晃。明応の政変で将軍となり、母と弟の敵討ちを宗瑞に命じたとされる。 |
| 細川政元 | 幕府実力者 | 管領。明応の政変を主導し、宗瑞の伊豆討ち入りの政治的背景をつくった。永正4年(1507年)暗殺。 |
| 太田道灌 | 敵対勢力 | 扇谷上杉家の家宰。今川の家督争いで小鹿範満に加勢した。文明18年(1486年)に主君・上杉定正に誅殺された。 |
| 上杉顕定 | 敵対勢力 | 関東管領・山内上杉家当主。立河原の戦いで宗瑞に敗れるが反撃し、永正7年に越後で敗死した。 |
| 大森藤頼 | 敵対勢力 | 小田原城主。宗瑞に城を奪われたとされる。山内上杉氏へ寝返ったための攻撃とする見方がある。 |
| 三浦義同(道寸) | 敵対勢力 | 相模の名族・三浦氏当主。宗瑞と長く争い、永正13年(1516年)に自害して三浦氏は滅亡した。 |
| 北条氏康 | 孫 | 後北条氏三代当主。河越夜戦で両上杉氏を破り、関東における後北条氏の覇権を確立した。 |
| 北条氏政 | 曾孫 | 後北条氏四代当主。最大版図を築いたが、天正18年(1590年)の小田原征伐で自刃した。 |
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北条早雲ゆかりの地は、生誕の地とされる岡山県井原市から、駿河・伊豆の静岡県、そして相模の神奈川県へと、その生涯の移動をそのままなぞるように広がっています。一日で回れる範囲ではないため、「伊豆・駿河編」と「相模編」に分けるのが現実的です。
伊豆・駿河編は、韮山城跡と伝堀越御所跡がともに伊豆の国市にあり短距離で結べます。ここに沼津市の興国寺城跡、焼津市の石脇城跡を加えると、駿河下向から伊豆平定までの足取りをたどれます。相模編は小田原城を起点に、箱根湯本の早雲寺で後北条五代の墓に参り、鎌倉の玉縄城跡、三浦半島の新井城跡へ。備中時代を訪ねるなら井原市の高越城跡と法泉寺が中心です。山城が多いため、歩きやすい服装での訪問をおすすめします。
小田原城
明応4年(1495年)ごろ、宗瑞が大森藤頼から奪ったとされる城。以後、後北条氏五代にわたる関東支配の中枢となり、天正18年(1590年)の小田原征伐まで関東最大の城郭として機能した。現在の天守は昭和に復興されたもので、内部は歴史展示館となっている。JR小田原駅から徒歩圏。日本100名城。
神奈川県小田原市城内6-1
早雲寺
永正16年(1519年)の宗瑞の死から2年後、遺言により嫡男・氏綱が創建した後北条氏の菩提寺。境内には宗瑞・氏綱・氏康・氏政・氏直の五代の墓が並ぶ。箱根湯本駅から徒歩10〜15分。宗瑞の生涯を追う旅の締めくくりにふさわしい場所である。
神奈川県足柄下郡箱根町湯本405
韮山城跡
明応2年(1493年)の伊豆討ち入り後、宗瑞が伊豆統治の拠点とした城。後北条氏の関東進出の起点であり、以後も伊豆支配の要として維持された。天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣方の大軍を相手に籠城戦を戦っている。本丸・二の丸・三の丸、土塁、堀の遺構が残る。
静岡県伊豆の国市韮山438-3
伝堀越御所跡
堀越公方・足利政知が置いた御所の跡と伝えられる場所。明応2年(1493年)、宗瑞が足利茶々丸を攻撃した伊豆討ち入りの現場にあたる。現在は草地で、案内板が立つのみだが、東国戦国期の始まりとされる事件の舞台である。韮山城跡から近く、あわせて訪ねたい。
静岡県伊豆の国市四日町
興国寺城跡
長享元年(1487年)の今川氏親擁立後、宗瑞が与えられて入ったとされる城。ただし拝領については史料の確認が取れないとする異論もある。愛鷹山から延びる尾根の先端に築かれた城で、天守台跡の大土塁と背後の大空堀が見どころ。平成7年(1995年)に国の史跡に指定された。
静岡県沼津市根古屋
石脇城跡
長享元年(1487年)に駿河へ下向した宗瑞が入り、同志を集めたと伝わる城。ここを起点として今川館を襲撃し、小鹿範満を討った。小規模な丘城で遺構は多くないが、宗瑞が実力行使に踏み切った出発点として意味を持つ。JR焼津駅から徒歩圏。
静岡県焼津市石脇上636
玉縄城跡
永正9年(1512年)10月、三浦氏攻略のために宗瑞が鎌倉に築いた城。鎌倉の抑えと三浦半島封じ込めを兼ねた戦略的な新造であり、後北条氏においても重要拠点とされ、信頼の厚い一族が代々城主を務めた。現在は大部分が学校敷地となっており、大手門跡などの標識が残る。
神奈川県鎌倉市城廻200
新井城跡
三浦氏が本拠とした三浦半島先端の城。永正13年(1516年)、宗瑞の攻撃を受けて三浦義同・義意父子が滅んだ地とされる。主郭部は大学の研究施設の敷地となっており非公開だが、周辺には土塁や空堀とみられる痕跡が残る。近くに三浦道寸の墓所がある。
神奈川県三浦市三崎町小網代1024
高越城跡
備中伊勢氏の居城で、宗瑞の生誕地とされる山城。標高172mの高越山頂にあり、主郭には「北条早雲生誕の地」碑が建てられている。城域まで車で近づくことができ、駐車場も整備されている。眼下に荏原荘の地が広がり、宗瑞が見たであろう風景を確かめられる。
岡山県井原市神代町
法泉寺
宗瑞の父・伊勢盛定が創建したと伝わる寺で、宗瑞が幼少期に学んだともいわれる。文明3年(1471年)付の「平盛時」署名の禁制札を伝え、宗瑞の備中伊勢氏出身説を裏づける史料として岡山県の指定重要文化財となっている(禁制札は非公開)。本堂の裏手には宗瑞と父の墓がある。
岡山県井原市西江原町4841
北条早雲ゆかりの史跡を巡る宿泊拠点を選ぶ
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| 編纂史料 | 『北条記』 | 後北条氏に関する代表的な軍記・編纂史料。 |
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