稲葉山城の戦い ― 7年がかりの美濃攻略、信長が「天下布武」を宣言した日

永禄10年(1567年)8月 | 美濃国井之口(現:岐阜県岐阜市)


3行でわかるこの戦い

  • 信長が桶狭間おけはざまの勝利後、足かけ7年をかけて美濃の斎藤氏を攻略した最終決戦
  • 斎藤家の重臣「西美濃三人衆」の寝返りをきっかけに、信長は電光石火で稲葉山城いなばやまじょうを包囲・陥落させた
  • 信長は稲葉山城を「岐阜城ぎふじょう」と改称し、「天下布武てんかふぶ」の印を用い始めた ― 天下統一への出発点となった戦い

本筋説 ― 教科書・定説ベースの解説

なぜ戦いは起きたのか

織田家と斎藤家の因縁は信長の父・信秀の代にまで遡る。美濃と尾張は隣国であり、両家は長年にわたって争いを繰り返してきた。一時は信長と斎藤道三さいとうどうさんの娘・帰蝶きちょう(濃姫)の婚姻によって同盟が結ばれたが、弘治2年(1556年)に道三が息子の斎藤義龍さいとうよしたつに討たれると(長良川の戦いながらがわのたたかい)、同盟は破綻。以後、織田家と斎藤家は再び敵対関係に戻った。

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元いまがわよしもとを討ち取った信長は、徳川家康とくがわいえやす清洲同盟きよすどうめいを結んで東の脅威を解消し、美濃攻略に本格的に着手する。しかし稲葉山城は標高約330mの金華山きんかざんの頂上に築かれた難攻不落の山城であり、攻略は容易ではなかった。

→ 詳しくは合戦記事「桶狭間の戦い」を参照

7年にわたる攻防

信長の美濃攻めは一筋縄ではいかなかった。永禄4年(1561年)に義龍が急死し、14歳の斎藤龍興さいとうたつおきが後を継ぐと、信長は好機と見て攻撃を仕掛ける。森部の戦いでは勝利するものの、稲葉山城そのものは攻め落とせなかった。永禄6年(1563年)の新加納の戦いでは斎藤軍に敗れている。

龍興は若年で政治に無関心との評価が多いが、竹中重治たけなかしげはる(半兵衛)をはじめとする有能な家臣たちが防戦に奮闘し、信長は何度も煮え湯を飲まされた。信長は美濃攻略の拠点として居城を清洲城きよすじょうから小牧山城こまきやまじょうに移し、前線に近い位置から指揮を執る体制を整えている。

竹中半兵衛による城の乗っ取り

永禄7年(1564年)、斎藤家に衝撃的な事件が起きる。家臣の竹中重治(半兵衛)が安藤守就あんどうもりなりとともに、わずか十数人の手勢で稲葉山城を奪取してしまったのである。龍興は寝巻き姿で城から逃げ出したとされる。

信長はすぐさま半兵衛に使者を送り、美濃の半分を与える条件で城の明け渡しを求めたが、半兵衛はこれを拒否。約半年後に龍興に城を返還した。この事件の真意は「主君を諫めるためだった」とも「実際には謀反だった」とも言われ定かではないが、斎藤家の家臣団に決定的な亀裂が入ったことは間違いない。以後、斎藤家からの離反者が続出するようになった。

最終決戦 ― 電光石火の攻城

永禄10年(1567年)8月1日、ついに決定的な転機が訪れる。「西美濃三人衆」と呼ばれる斎藤家屈指の重臣、稲葉良通いなばよしみち(一鉄)、氏家直元うじいえなおもと(卜全)、安藤守就の3人が、信長に内応を申し出たのである。道三の頃から仕えてきた古参の重臣たちが主君を見限ったことは、斎藤家の命運が尽きたことを意味していた。

信長公記しんちょうこうき』によれば、信長は人質を受け取る使者を送り出すと同時に、即座に軍勢を動かした。「三河方面に出陣する」と偽って集めた兵を、一転して美濃に向けたのである。斎藤方はまさか信長が攻めてくるとは思っておらず、家臣たちは領国内の支城に散らばっていた。

信長軍は稲葉山と尾根続きの瑞龍寺山ずいりゅうじやまに駆け上り、城下の井口の町を焼き払った。折しも強風が吹いており、火はたちまち広がって稲葉山城は「裸城」と化した。翌日には信長は城の四方に鹿垣ししがき(柵)を巡らせて完全に包囲。遅れて到着した美濃三人衆も、織田軍のあまりの行動の速さに驚いたという。

龍興は籠城ろうじょうして抵抗を試みたが、もはや対抗できる状態にはなかった。8月15日、城兵は降参して開城。龍興は長良川ながらがわを船で下り、伊勢長島へと逃れた。こうして信長は、父子二代にわたる悲願であった美濃攻略を成し遂げた。

合戦のその後

信長は稲葉山城に入ると、それまでの縄張りを改め、城を新たに造営し直した。城下の地名「井口」を「岐阜」と改称し、城名も「岐阜城」とした。「岐阜」の名は、古代中国の周王朝が発祥の地「岐山」から天下を治めた故事にちなんだものとされる。

この頃から信長は「天下布武」の朱印を使い始める。武力によって天下に秩序をもたらすという意思表示であり、信長が本格的に天下統一を志すようになった象徴的な出来事である。

一方、敗走した斎藤龍興はその後も信長への抵抗を続けた。長島一向一揆に参加し、三好三人衆と結んで京都での戦いにも加わった。最期は天正元年(1573年)、越前・刀根坂とねざかの戦いで戦死したとされる。享年26。大名としての復帰は果たせなかったが、6年にわたって信長に抗い続けたその生涯は、単なる暗愚の当主では片付けられない。

→ 詳しくは武将記事「織田信長」を参照


諸説 ― 様々な角度から可能性を探る

【諸説①】落城の時期 ― 8月か、9月か

『信長公記』は稲葉山城の落城を8月15日としているが、近年の研究では9月とする説が有力になりつつある。根拠の一つは瑞龍寺旧蔵の史料に「永禄十丁卯九月、織田上総乱入」との記述があること。また、信長が美濃国内で発給した文書は永禄10年9・10月に集中しており、8月時点ではまだ美濃を支配下に置いていなかった可能性を示唆している。

【諸説②】墨俣一夜城 ― 秀吉の伝説は創作か

稲葉山城攻略に先立ち、秀吉が長良川西岸の墨俣すのまたに一夜にして砦を築いたという有名な逸話がある。しかしこの話は一次史料である『信長公記』には記載がなく、江戸時代以降の創作である可能性が高いとされている。ただし、信長が美濃攻略の橋頭保として墨俣付近に何らかの拠点を設けたこと自体は否定されていない。

【諸説③】龍興は本当に暗愚だったのか

斎藤龍興は「政治に無関心で、媚びへつらう家臣を重用した暗愚な君主」として描かれることが多い。しかし近年の研究では、この評価は信長の優秀さを際立たせるために後世に低く描かれた面があると指摘されている。実際、龍興は7年間にわたって信長の侵攻を防ぎ続けており、落城後も6年にわたって抵抗を続けた。また、竹中半兵衛を高く評価する物語の流れの中で、半兵衛に城を奪われた龍興は必然的に暗愚として扱われることになったという構造的な問題もある。

【諸説④】「天下布武」の「天下」は日本全国を意味するのか

信長が岐阜で用い始めた「天下布武」の「天下」については、「日本全国の統一」を意味するとする従来の解釈に対し、当時の用語としては「五畿内(京都を中心とする畿内地方)」を指すものだったとする説が有力になっている。つまり信長の当初の目標は日本全土の支配ではなく、まず畿内の制圧だったという見方である。


戦略的に見ると

稲葉山城の戦いで注目すべきは、信長が「正攻法では勝てない」と見切った判断力と、そこから導き出した「内部崩壊戦略」の徹底ぶりである。

7年間の攻防を振り返ると、信長は正面からの軍事攻撃では稲葉山城を落とせなかった。新加納では敗北し、稲葉山城への直接攻撃も撃退されている。金華山の地形を利用した防御力は、信長の軍事力をもってしても突破できないほど強固だった。

そこで信長が選んだのは、軍事力ではなく調略ちょうりゃく(外交工作)による内部崩壊である。斎藤家の家臣団を一人ずつ切り崩し、中濃の国人領主を味方につけ、最終的には西美濃三人衆という斎藤家の屋台骨を引き抜いた。城を攻めるのではなく、城を守る人間を引き剥がしたのである。

そして最終局面での行動速度にも注目したい。三人衆の内応を得てからの信長の動きは桶狭間を彷彿とさせる。偽情報で敵を油断させ(「三河に出陣する」)、意表を突いて美濃に侵入し、一気に城下を焼き払って城を裸にした。この「準備に年単位の時間をかけ、実行は数日で決着させる」という緩急の使い分けは、信長の合戦に共通する特徴である。

桶狭間が「運と勢いによる一発勝負」だったとすれば、稲葉山城は「計画的な調略と電撃的な実行の組み合わせ」であり、信長の軍略がより成熟したことを示している。


関連史跡マップ・旅行モデルコース

関連史跡マップ ― 稲葉山城の戦い

マップ上のスポット:

  • 岐阜城(城)― 稲葉山城を改称。信長が「天下布武」を宣言した城
  • 墨俣一夜城(大垣市歴史民俗資料館)(城)― 秀吉が一夜で築いたとされる砦の伝承地
  • 小牧山城(城)― 信長が美濃攻めの拠点として移した居城

※ 地図は現代の道路に基づく参考表示です。戦国時代の道路・地形とは異なります。

📍 Googleマップでルートを見る(車/電車の切替可)


旅行モデルコース ― 稲葉山城の戦い ― 美濃攻略の足跡を辿る1日コース

前提条件

  • 所要時間:約6〜7時間(車)
  • 徒歩速度:時速約4km、各スポット滞在:30分〜1時間
  • 起点:名古屋駅またはJR岐阜駅

モデルコース

① 小牧山城(滞在:約1時間) 信長が美濃攻めの前線基地として移した居城。山頂の歴史館から見渡す濃尾平野は、信長が美濃をにらんだ景色そのもの。 – 車:名古屋駅から約40分 – 電車:名鉄「小牧駅」徒歩25分

② 墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)(滞在:約45分) 秀吉が一夜で砦を築いたとされる伝承地。現在は資料館として公開。桜の名所としても有名。 – 車:小牧山城から約40分

③ 岐阜城(滞在:約1.5〜2時間) 稲葉山城を攻略した信長が改称した城。金華山ロープウェーで山頂へ。天守閣からの眺望は圧巻で、信長が「天下布武」を決意した理由が体感できる。 – 車:墨俣一夜城から約25分 – 電車:JR岐阜駅からバス15分+ロープウェー – ※ロープウェー:往復1,100円(2024年時点)、山頂駅から天守まで徒歩約8分(急な坂あり)

対象者別アレンジ

  • 健脚向け: 岐阜城は百曲り登山道(約1時間)で徒歩登頂に挑戦
  • ゆったり派: 岐阜城のみに絞り、ロープウェーで往復。麓の岐阜公園と信長居館跡も散策

※ 本プランは一般的な移動速度・滞在時間をもとに作成した参考モデルです。施設の営業時間・交通ダイヤ・混雑状況は季節や曜日によって変動します。お出かけの際は最新情報を各施設・交通機関の公式サイトでご確認ください。

※ 入山料・入館料・ロープウェー料金等は記載時点の参考価格です。変更されている場合があります。

※ 山城跡の登山は天候や体力に応じて無理のない計画を立ててください。

関連する記事


参考情報

  • 一次史料:『信長公記』(太田牛一おおたぎゅういち 著)― 「稲葉山御取り侯事」の章
  • 谷口克広『織田信長合戦全録 桶狭間から本能寺ほんのうじまで』(中公新書、2002年)
  • 横山住雄『織田信長の尾張時代』― 落城時期を9月とする説の根拠を提示
  • 勝俣鎮夫『岐阜市史』― 永禄10年説の論証

※本記事は上記の史料・研究書およびWeb上の複数の情報源をもとに構成しています。歴史の解釈には研究者の間でも見解が分かれる部分があり、今後新たな史料の発見や研究の進展によって定説が変わる可能性があります。

※地図上のルートは現代の道路に基づく参考表示です。実際の進軍経路は諸説あります。

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