月山富田城の戦い ― 大内と毛利、なぜ同じ城で結果が分かれたのか?第一次・第二次の諸説

合戦記事

3点でわかる月山富田城の戦い

  • 戦国期に2度行われた、出雲尼子氏の本城・月山富田城がっさんとだじょうをめぐる大規模な攻城戦。第一次は天文11〜12年(1542〜1543年)、大内義隆が率いる連合軍が尼子晴久を攻めて大敗。第二次は永禄8〜9年(1565〜1566年)、毛利元就が尼子義久を破って尼子氏を滅ぼした。城は島根県安来市広瀬町に現存し、戦国期最強級の山城として知られる。
  • 第一次は「力攻めの失敗」、第二次は「兵糧攻めの成功」。第一次では、約4万5千の大内軍が国人衆の寝返りと尼子のゲリラ戦術によって攻めあぐね、敗走中に大内晴持おおうちはるもち(義隆の養嗣子)が遭難死。陶隆房らの責任が問われた敗戦は、後の大寧寺の変の遠因となる。第二次では、第一次の戦訓を活かした元就が兵糧攻めを徹底し、約1年半で開城に追い込んだ。
  • 戦国西国史の流れを決定的に変えた一連の合戦群。第一次の大内軍敗北は大内氏弱体化と毛利氏の自立の起点となり、第二次の尼子氏滅亡は毛利氏を中国地方の覇者へと押し上げた。さらに尼子氏滅亡後には山中鹿介らによる尼子再興運動が起こり、永禄13年(1570年)の布部山の戦いまで戦闘は続いた。城そのものは元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となるまで、出雲の中心であり続けた。
桶狭間の戦い インフォグラフィック

本筋説 ― 教科書に載っている定説ベースの解説

月山富田城という要害 ― 天険の山城

月山富田城は、出雲国能義郡(現・島根県安来市広瀬町)の標高197mの月山に築かれた山城である。築城時期は鎌倉時代にさかのぼるとされ、出雲守護・佐々木氏の居城を経て、応仁の乱前後から尼子氏の本拠となった。城は月山一帯の急峻な地形を最大限に活用し、麓を流れる飯梨川いいなしがわ(当時は富田川)を天然の堀とする。山頂には本丸・二の丸・三の丸が構えられ、その下に山中御殿、太鼓壇、千畳平などの平場が階段状に展開する。城下から本丸に通じる登城路は七曲ななまがりと呼ばれる狭隘な山道で、攻め手は徹底的に絞り込まれる構造となっていた。

この険要な城を本拠としていたのが、出雲の戦国大名・尼子氏である。尼子氏は近江源氏佐々木氏の流れを汲み、京極氏の出雲守護代から戦国大名へと身を起こした家柄である。とくに尼子氏中興の祖と称される尼子経久の代に勢力を大きく伸ばし、最盛期には出雲・隠岐・伯耆・因幡・備前・備中・備後・美作・石見・播磨・但馬の山陰山陽11カ国の守護職を兼ねたとも伝わる(後世の誇張を含む可能性が高い)。月山富田城はこの広大な領国の中心として、戦国期を通じて山陰随一の堅城と謳われた。

第一次月山富田城の戦い ― 大内義隆出雲遠征の前史

第一次月山富田城の戦いの直接の契機は、天文10年(1541年)の吉田郡山城の戦いであった。尼子経久の孫・尼子晴久が、安芸の毛利元就を討つために約3万の大軍を率いて吉田郡山城を攻めたが、毛利の善戦と大内方の援軍によって大敗を喫し、出雲に逃げ帰った。この敗戦により、それまで尼子方であった安芸・備後・石見の国人衆の多くが大内方へ寝返り、尼子氏の勢力は大きく後退する。さらに同年11月、尼子氏の精神的支柱であった尼子経久が83歳で死去した。

安芸・備後・出雲・石見の主要国人衆から「尼子討伐」を求める連署状が大内氏に届けられ、これを受けて陶隆房ら武断派は出雲遠征を強く主張した。相良武任や冷泉隆豊ら文治派は反対したが、最終的に大内義隆は出雲遠征を決断する。天文11年1月11日(1542年1月26日)、義隆自らが総大将となり、陶隆房・杉重矩・内藤興盛・冷泉隆豊・弘中隆兼らを率いて山口を出陣。義隆の養嗣子・大内晴持も従軍した。1月19日に厳島神社で戦勝祈願を行ったのち、大内軍は出雲へ進発する。毛利元就・隆元父子も小早川正平・益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆とともに大内軍に合流した。総勢約4万5千とも言われる大軍であった。

第一次 ― 力攻めの破綻と国人衆の寝返り

大内軍は4月に出雲へ侵入したが、出雲国境の赤穴城あかなじょうの攻略に手間取り、6月7日から7月27日までの約50日を費やした。10月になってようやく三刀屋峰みとやみねに本陣を構え、年を越して天文12年(1543年)2月、月山富田城を見下ろす京羅木山きょうらぎさんに本陣を移した。両軍は月山富田城近くを流れる富田川(現・飯梨川)を挟んで対峙する。

3月、大内軍は月山富田城への総攻撃を開始した。当初は約4万5千の兵力で約1万5千の尼子軍を圧倒する形だったが、難攻不落の月山富田城はびくともしなかった。御子守口おこもりぐち塩谷口しおだにぐち菅谷口すがたにぐちの登城三口はいずれも狭隘で、大軍が展開できない。毛利元就率いる軍勢も4月に塩谷口を攻めたが敗退した。

戦況を一変させたのが、国人衆の集団的寝返りである。4月末、もともと尼子方から大内方に転じて参陣していた三刀屋久扶みとやひさすけ三沢為清みさわためきよ本城常光ほんじょうつねみつ吉川興経きっかわおきつねらが一斉に尼子方へ復帰したのである。『陰徳太平記』には、これらの国人衆が城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと記されている。これにより大内軍の劣勢は明白となり、糧道に対する尼子軍のゲリラ戦術が決定打となった。

第一次 ― 撤退と大内晴持の遭難死

大内義隆は5月7日に全軍撤退を決定した。退路を断たれることを恐れて、各部隊が別経路で撤退する方針が取られた。だが、撤退戦は各所で凄惨を極めた。海路を取った大内晴持の船は、追い詰められた兵が我先にと舟に乗り込もうとして転覆し、晴持は溺死した。享年20。共に従軍していた小早川正平も伏兵に遭って戦死した。

殿軍を命じられた毛利元就・隆元父子は、出雲から石見へ撤退する途中、国境の大江坂おおえざか七曲(降露坂、現・島根県大田市温泉津町小浜の七騎坂)で尼子軍の追撃を受けた。元就は死を覚悟するほどの危機に追い込まれたが、家臣の渡辺通わたなべとおるが身代わりとなって戦死し、同族の渡辺平蔵、児玉元保、三戸就清、内藤元茂、井上就良らも次々と討死した。彼らの壮絶な戦死によって元就と隆元はかろうじて安芸に帰還を果たした。

第一次月山富田城の戦いは、戦国期屈指の大軍を動員した攻城戦が、城方の堅守と国人衆の動揺、糧道の脆弱さによって瓦解した代表例となった。最愛の養嗣子・晴持を失った大内義隆は戦意を完全に喪失し、これ以後、軍事よりも公家文化に没頭していくことになる。家中の武断派と文治派の対立は深まり、8年後の大寧寺の変と大内氏滅亡への直接の伏線が、この敗戦で敷かれた。

第一次から第二次へ ― 20年余の戦略転換

第一次の戦いの後、出雲尼子氏は一時的に勢威を取り戻したが、毛利元就は安芸からの中国地方制覇への道を着実に歩み始めた。天文23年(1554年)11月、尼子晴久は家中の有力一族「新宮党しんぐうとう」を粛清する。新宮党は尼子経久の次男・尼子国久あまごくにひさを頭領とする精鋭3000であったが、毛利元就の謀略によって晴久が内部からの粛清に踏み切ったとされる説が広く知られる。新宮党粛清は尼子家中の精強な戦力を失わせ、後年の毛利との対決における致命傷となった。

永禄3年(1560年)12月、尼子晴久が47歳で急死し、家督は子の尼子義久が継いだ。一方の毛利氏は弘治元年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢を破り、弘治3年(1557年)の防長経略で大内氏を完全に滅ぼして、周防・長門を版図に組み入れていた。中国地方の覇権をめぐる対決は、毛利氏対尼子氏の最終決戦へと移行していった。

永禄5年(1562年)、毛利元就は出雲・伯耆方面への本格侵攻を開始する。まず白鹿城しらがじょう(宍道湖北岸)を攻略して尼子方の交通・補給路を断ち、永禄8年(1565年)には月山富田城本体への攻撃に踏み切った。第一次から実に22年が経過していた。

第二次月山富田城の戦い ― 兵糧攻めの徹底

永禄8年(1565年)4月、毛利元就・元春・隆景の毛利両川と、初陣の輝元を加えた毛利軍約3万が月山富田城を3方向から包囲した。籠城する尼子軍は約1万。輝元は御子守口を担当し、岩倉への迎撃を志願したが大事を取って却下されたとも、副将に補佐されて善戦したとも伝わる。次男・吉川元春は塩谷口で苦戦し、三男・小早川隆景も菅谷口で厳しい戦いを強いられた。十日経っても埒があかず、元就はいったん兵を引いた。第一次と同様に、月山富田城の険要は力攻めを許さなかったのである。

同年9月、元就は戦術を根本から転換し、兵糧攻めに切り替えた。京羅木山、勝山など周辺の山に付城を築いて補給路の監視を強化し、海上は毛利水軍が封鎖し、福原貞俊に鉄砲隊を与えて海岸線を固めた。第一次の戦訓は明らかであった――月山富田城は力攻めでは落ちない、糧道を断つしかない。

当初、元就は降伏する尼子方の兵を処刑するという強硬策を取り、城内の食料を早期に消耗させる狙いを明確にした。同時に城内有力部将への調略を進め、尼子方の亀井秀綱かめいひでつな牛尾幸清うしおゆききよらが次々と降伏する。城内は猜疑心に包まれ、永禄9年(1566年)に入ると一度に数十人単位で脱走する兵が続出した。

永禄9年正月、城兵の士気を高めようと私財を投じて海から兵糧を運び入れた重臣・宇山久兼うやまひさかねが、大塚与三右衛門おおつかよさえもんの讒言によって謀反の疑いをかけられ殺害される事件が起きた。これは毛利の離間策が結実した瞬間でもあった。義久は信望を失い、城内の崩壊は加速した。6月には餓死者が出始め、戦闘継続は不可能となる。元就は今度は逆に粥を炊き出して降伏を誘い、投降者を保護する方針に転じた。

第二次 ― 開城と尼子氏滅亡

永禄9年11月21日、尼子義久はこれ以上の籠城は不可能と判断して降伏を申し出た。11月28日、月山富田城は正式に開城する。当初約1万であった籠城兵は、開城時には300人ほどにまで激減していた。義久と弟の倫久・秀久は毛利方に投降し、毛利元就は彼らに自害を求めず、安芸・長田ちょうだ(現・広島県山県郡安芸太田町)で隠棲生活を送らせる寛大な処遇を取った。これにより、出雲尼子氏の戦国大名としての歴史は事実上幕を閉じた。

戦後 ― 山中鹿介と尼子再興の戦い

尼子氏の旧臣の中には、主家滅亡を受け入れず再興を志す者がいた。その中心が山中鹿介幸盛である。鹿介は尼子経久の弟・尼子久幸の血筋にあたる尼子勝久あまごかつひさを擁立し、永禄12年(1569年)に隠岐から出雲へ上陸して尼子再興軍を起こした。鹿介は「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという伝承で知られる、戦国期屈指の忠臣として後世に名を残す人物である。

再興軍は一時、月山富田城に迫るほどの勢いを見せたが、永禄13年2月14日(1570年3月20日)、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景率いる毛利軍と布部山ふべやま(現・島根県安来市広瀬町布部)で戦って大敗した(布部山の戦い)。翌2月15日には、城内の兵糧が尽きて落城寸前であった月山富田城(毛利方守備)が救援を受け、尼子再興軍の包囲を解かれた。以後、再興軍は衰亡し、織田信長・羽柴秀吉の中国攻めに合流するものの、天正6年(1578年)7月、上月城で勝久が自害し、鹿介も毛利の手に捕らえられて備中松山の阿井あいの渡しで殺害された。これをもって、尼子氏は完全に歴史の表舞台から消えた。

月山富田城そのものは、関ヶ原戦後に堀尾吉晴が松江城を新たに築いた元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となるまで、出雲の中心地として機能し続けた。現在は国の史跡として整備が進められ、戦国期最大級の山城遺構を実地で体感できる場所となっている。

月山富田城の戦い 布陣図

諸説 ― 様々な角度から可能性を探る

諸説① ― 第一次の兵力は4万5千で正確か

論点第一次月山富田城の戦いにおける大内軍の兵力には、複数の伝承がある。

【約4万5千説】『陰徳太平記』など軍記類が伝える数字。大内軍が安芸・周防・石見・出雲・備後の諸国人衆を糾合した連合軍であったことから、合計でこの規模に達したとする伝承。第一次の規模の象徴的な数字として広く知られる。

【約3万説】大内本隊の規模を約3万とし、これに諸国人衆を含めても4万を超えなかったとする見方。当時の動員力の現実から見て、4万5千は誇張を含むとする立場である。

【1万5千説】大内義隆本隊のみを1万5千とする伝承。これは大内氏が直接動員した兵数を狭く捉えた数字で、連合軍全体としては別途算出が必要となる。

戦国期の合戦における動員兵力は、軍記類における誇張、参加国人衆の含み方、後方支援要員の扱いなどによって大きく揺れる。いずれにせよ、第一次の大内軍が当時としては極めて大規模な遠征軍であったことに変わりはない。一方、籠城側の尼子軍は約1万〜1万5千とされ、攻城戦としては「攻め手の絶対的優位」がありながら勝てなかった、という構図に揺るぎはない。

諸説② ― 国人衆の寝返りは尼子の謀略か自発的判断か

論点第一次の戦況を一変させた、天文12年4月末の国人衆集団寝返り(三刀屋久扶・三沢為清・本城常光・吉川興経ら)の動機については複数の解釈がある。

【尼子方の調略成功説】もっとも一般的な解釈。月山富田城の堅守に手こずる大内軍の停滞を見て、尼子方が国人衆への調略を強化し、彼らを尼子方に引き戻したとする説。『陰徳太平記』が伝える「城門から堂々と尼子軍に合流していった」という描写は、調略が成功した後の演出と整合する。

【国人衆の自発的判断説】国人衆は元来、出雲・備後・石見の地縁を持つ独立した小領主であり、大内・尼子のいずれが優勢かを冷徹に観察して帰属を決めていたとする見方。大内軍の攻めあぐねが明白になった段階で、地理的に近い尼子方への復帰を自発的に選択したと解釈する。

【兵糧と糧道の現実説】大内軍の長期遠征により、出雲・石見の現地調達に依存していた兵糧供給が困難化していたとする見方。地元の国人衆にとって、大内軍の長居は領内の疲弊を意味しており、勝算が薄れた段階で離反は当然の選択であった、とする立場である。

これらの諸説はいずれも単独で全てを説明するものではなく、複合的に作用したと見るのが現代の主流である。いずれにせよ、国人衆の寝返りは戦国期の動員体制の脆弱さを象徴する事例として、しばしば引用される。

諸説③ ― 大内晴持の遭難死は単なる事故か

論点大内晴持の遭難死は、後の大寧寺の変や大内氏滅亡の遠因として位置づけられる重要事件だが、その経緯には複数の伝承がある。

【兵殺到による船転覆説】もっとも広く伝わる経緯。撤退戦の最中、海路を取った晴持の船に、追い詰められた兵が我先にと乗り込もうとした。船上の人が棹で水中から這い上がろうとする兵を払い落とそうとしたところ、船はバランスを崩して転覆し、晴持は溺死したとされる。『大内義隆記』『陰徳太平記』などが伝える経緯である。

【尼子方追撃中の撃沈説】晴持の船が尼子軍の追撃を受け、戦闘の中で転覆させられたとする説。福島親弘・右田弥四郎ら大内家臣が殿軍を務めて戦死した経緯と整合的だが、撃沈の直接の経緯は史料間で異なる。

【天候要因説】5月の日本海は荒天が多く、撤退時の悪天候が船の転覆を招いたとする解釈。第一次の戦いに先行する別の経緯で、別働隊の船も同様の困難に遭遇したことを傍証とする見方である。

いずれの説に従っても、晴持の死が戦闘そのものよりも撤退の混乱の中で生じた点は共通している。最愛の養嗣子を失った大内義隆の精神的打撃は計り知れず、これが後の文治派偏重と大寧寺の変に至る家中対立の起点となった。第一次月山富田城の戦いの最大の戦略的帰結は、戦場の損害ではなく、撤退時の事故の連鎖にあったとする見方もある。

諸説④ ― 新宮党粛清は毛利元就の謀略か尼子晴久の独断か

論点第一次と第二次のあいだの天文23年(1554年)、尼子晴久が家中の精鋭・新宮党(尼子国久父子ら)を粛清した事件は、第二次月山富田城の戦いの重要な伏線となる。この粛清の背景には複数の解釈がある。

【毛利元就の謀略結果説】もっとも有名な解釈。元就が新宮党と尼子本家の対立を煽る情報工作を行い、晴久に粛清を決断させたとする説。元就の「謀略家」としての評価を裏づける代表的エピソードとして、軍記類にも広く採られる。

【尼子家中の構造的対立説】新宮党は尼子経久の次男・国久を頭領とする独立性の高い精鋭集団で、本家とは別の所領・別の家臣団を持っていた。当主・晴久にとっては潜在的な脅威であり、毛利の謀略に関わらず粛清の動機は内在していたとする見方である。

【両説並立説】晴久が抱えていた家中対立の潜在的危機に、外部からの情報工作が点火したとする複合的解釈。元就の謀略は決定的な一押しではあったが、唯一の要因ではなかったとする立場である。

事実として、新宮党の粛清により尼子家は約3000の精鋭戦力を失った。これが第二次月山富田城の戦いの抗戦能力を決定的に削いだことは間違いなく、第一次における国人衆の寝返りと並ぶ、戦国期家中の構造的脆弱さを示す事例となっている。

諸説⑤ ― 毛利元就の兵糧攻めはいつ計画されたか

論点第二次月山富田城の戦いにおける兵糧攻めの戦術は、毛利元就が第一次の戦訓を活かしたものとして高く評価されるが、その計画の起点と発動時期には議論がある。

【当初から兵糧攻めだった説】元就は第一次の経験から月山富田城を力攻めで落とすことは不可能と冷静に判断しており、永禄5年(1562年)の出雲侵攻開始時点ですでに兵糧攻めの長期戦略を採用していたとする説。白鹿城攻略から段階的に補給路を遮断する流れは、この計画の現れと解釈される。

【4月総攻撃失敗後の転換説】永禄8年(1565年)4月の3方向総攻撃で苦戦を強いられた元就が、この経験を踏まえて9月から戦術を兵糧攻めに切り替えたとする説。当初は力攻めの可能性を試み、失敗を確認したうえで戦術転換を行ったとする見方である。

【両者の複合説】長期的な補給遮断は当初からの計画にあったが、4月の総攻撃は将兵の士気・実力試し・尼子方の戦力評価の意図があり、9月以降の本格的兵糧攻めは当初計画の本格発動だったとする見方。

いずれの解釈をとるにせよ、元就が「無理な攻城はせず、策略を張り巡らせる」という方針を貫いたことは、第一次における大内義隆の失敗との対照を際立たせる。武勇による短期決着を狙わず、心理戦と補給遮断で相手の内部崩壊を促す戦術は、戦国期の包囲戦の教科書的事例として後世まで参照された。

諸説⑥ ― 尼子義久への寛大な処遇の意図

論点永禄9年11月の開城後、尼子義久・倫久・秀久兄弟は自害を求められず、安芸・長田での隠棲生活を許された。戦国期の敗将処遇としては異例の寛大さであり、その意図には議論がある。

【元就の人格的寛大さ説】もっとも穏当な解釈。毛利元就は本能寺の変後の秀吉のような厳格な敗将処分を取らず、武家の名門・尼子氏の血統を断たない処遇を選んだとする見方。

【後の禍根を絶つための分離戦略説】義久らを自害させれば旧臣の反発が高まり、再興運動の象徴になる危険があった。生かして毛利の管理下に置くことで、再興運動が義久を担いで挙兵することを防ごうとしたとする戦略的解釈。実際には山中鹿介が傍流の尼子勝久を擁立して再興運動を起こし、結果としてこの分離戦略は奏功したとも言える。

【公儀向けの体面確保説】京都の朝廷や将軍家、周辺の戦国大名に対する体面として、出雲守護家の血統を尊重する姿勢を示したとする見方。中国地方制覇後の毛利氏が「西国の正統な秩序の継承者」として位置づけられるためには、敗者を皆殺しにする振る舞いは避けたかった。

【将兵の調略を継続する余地確保説】義久を生かしておくことで、降伏に応じれば命は保証されるという先例を、今後の戦いでも提示できるとする見方。第二次の戦いの後半に降伏者を保護する方針に転じた経緯と整合する。

義久らへの寛大な処遇は、戦国大名としての毛利氏の成熟を示す一例として後世しばしば引用される。同時に、その後の山中鹿介・尼子勝久による再興運動が、義久ではなく傍流の勝久を擁立する形を取らざるをえなかった事情の前提でもあった。

戦略的に見ると ― 両戦の比較・要害の論理・覇権交代

両戦の比較 ― 力攻めから兵糧攻めへ

第一次と第二次の最大の対照は、攻城側の戦術の根本的な転換にある。第一次の大内軍は約4万5千という圧倒的兵力に頼った力攻めを志向し、約1万5千の尼子軍に対する正面決戦を求めた。これに対し第二次の毛利軍は約3万の兵力をもって約1万の尼子軍を包囲しながらも、力攻めを放棄して兵糧攻めに徹した。

兵力比だけ見れば、第一次は約3:1、第二次は約3:1とほぼ同条件である。それでも結果が正反対になったのは、攻城側の戦術の質的な違いに起因する。月山富田城は地形的に「攻め口を絞り込む」構造を持っており、一度に展開できる兵数は限られる。すなわち兵力比の優位は、登城路の数だけ希釈される。第一次の大内軍はこの構造を理解しないまま正面攻撃を繰り返したのに対し、第二次の毛利軍は同じ構造を逆手に取り、限られた登城路を「外側から塞ぐ」ことで城内を孤立させた。

戦国期の攻城戦の理論として、月山富田城をめぐる二度の戦いは、力攻めから兵糧攻めへの戦術進化を象徴する事例として、後世しばしば対比的に語られる。

要害の論理 ― 月山富田城の構造的優位

月山富田城の難攻不落性は、単に高さや険しさではなく、城域全体の構造的設計にある。本丸を頂点に、御子守口・塩谷口・菅谷口の三登城口がそれぞれ独立した経路を持ち、いずれも狭隘な山道を経由する。攻め手は兵力を集中することができず、また、各登城口を突破しても、その先には階段状に展開する平場(千畳平・太鼓壇・山中御殿など)が次々と現れる。突破口を一つ得ても、城全体の攻略には程遠い、という構造である。

さらに、麓を流れる富田川(飯梨川)は天然の堀となり、城下町(広瀬の市町)の存在は籠城戦における人的資源・物資資源の確保を可能にする。出雲の中心としての商業・流通の機能を兼ね備えており、長期籠城に堪える経済基盤があった。

こうした構造的優位は、戦国期の山城としては最高水準の堅守性を生んだ。第一次の大内軍が攻めあぐねたのは、義隆の戦争意欲の問題というより、月山富田城そのものの構造に対する技術的限界の表出であった。同じ城を攻めるためには、力ではなく時間と心理戦で城を内部から崩すしかなかった、という第二次の毛利元就の判断は、要害の論理を熟知したうえでの戦略的選択だった。

覇権交代 ― 西国の支配構造の二段階転換

月山富田城をめぐる二度の戦いは、戦国西国における支配構造の二段階の転換点を構成している。第一次の敗北は、西国随一の戦国大名であった大内氏の弱体化の起点となり、大寧寺の変と大内氏滅亡(1557年)への直接の伏線を敷いた。第二次の勝利は、安芸の一国人にすぎなかった毛利氏を中国地方8カ国の覇者へと押し上げ、戦国西国の支配構造を抜本的に書き換えた。

第一次の時点で、大内・尼子・毛利の三者の関係は「大内が主軸、尼子が対抗軸、毛利は両者の狭間で生き残る国人」だった。第二次の時点では、「大内は滅亡、尼子は弱体、毛利が両者を吸収して覇者となる」という構図に完全に塗り替えられた。月山富田城という一つの城をめぐる二つの戦いが、わずか22年のあいだに西国の勢力地図をこれほどまでに変えた事実は、戦国期の合戦が単なる軍事的勝敗を超えた構造的影響力を持っていたことを示している。

そして毛利元就自身が、第一次で死を覚悟するほどの危機を経験し、第二次でその経験を活かして勝利した、という個人レベルの軌跡は、戦国大名としての成長物語そのものでもある。月山富田城は、毛利元就の生涯における「敗北の場所」と「勝利の場所」が同じ城であった、という稀有な事例を提供する。

この戦いにまつわる名言・言葉

「我に七難八苦を与えたまえ」― 山中鹿介の祈り

「我に七難八苦を与えたまえ」
山中鹿介 三日月への祈り(後世の伝承)

尼子氏滅亡後、再興を志した山中鹿介幸盛が、三日月に向かって祈ったとされる言葉。主家再興という困難な道を歩む覚悟を、神仏に苦難を求めるという逆説的な祈りで示した。第二次月山富田城の戦いの後、月山富田城を取り戻すべく尼子勝久を擁立して再興運動を起こした鹿介の覚悟を象徴する伝承として、江戸期以後、武士道精神の典型例として広く語り継がれた。出典は近世以後の軍記・読本類で、史実性については議論があるが、忠臣・鹿介のイメージを決定づけた名言である。

「卑怯者、成敗してくれる」― 国人衆寝返りの伝承

「卑怯者、成敗してくれる」
― 国人衆寝返りの場面(『陰徳太平記』)

第一次月山富田城の戦いで、4月末に大内方から尼子方へ寝返った国人衆が、城内に入る際に大音声で発したとされる言葉。城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったという『陰徳太平記』の伝承の中で、寝返りを正当化する大義名分として用いられたと記される。実際にこの言葉が発されたかは確証ある史料に乏しいが、戦国期の国人衆の去就が、自己の名分と戦況判断のあいだで揺れ動いていた様を象徴する逸話として伝えられている。

渡辺通の身代わり ― 主君を守る忠死

渡辺通、毛利元就の身代わりとなりて壮烈に戦死す
― 第一次月山富田城撤退戦の伝承

第一次月山富田城の戦いの撤退戦で、毛利元就・隆元父子は石見大江坂七曲(降露坂)で尼子軍の追撃を受け、絶体絶命の窮地に陥った。家臣の渡辺通は元就の身代わりとなって戦死し、同族の渡辺平蔵、児玉元保、三戸就清、内藤元茂、井上就良らも次々と討死した。彼らの壮烈な戦死によって元就と隆元はかろうじて生還できた。後年の毛利氏躍進の前提となった忠死として、毛利家中で長く語り継がれた。彼らが戦死した場所は現在「七騎坂」と呼ばれ、島根県大田市温泉津町小浜にある。

逸話・エピソード集

大内晴持の悲劇 ― 我先にと乗り込む兵の中で

第一次月山富田城の戦いの撤退戦最大の悲劇が、義隆の養嗣子・大内晴持の溺死だった。撤退の指示が下りた後、晴持は海路を取って小舟に乗り込んだが、追い詰められた兵が我先にと舟に乗り込もうとして殺到。船上の人が水中から這い上がろうとする兵を棹で払い落とそうとしたところ、船はバランスを崩して転覆し、晴持は溺死した。享年20。最愛の養嗣子を失った義隆は政治への意欲を完全に失い、これが後の大寧寺の変への直接の伏線となった。

毛利輝元の初陣志願

第二次月山富田城の戦いは、毛利元就の孫・輝元(後の安芸広島藩祖)の初陣でもあった。永禄8年(1565年)4月の総攻撃で、輝元は御子守口を担当し、岩倉に出撃してきた尼子軍への迎撃を志願したと伝わる。元就は孫の志願を喜びながらも、初陣の輝元を直接戦闘に投入することを避け、副将に補佐させて善戦させたとも、却下したともいう(『元就軍記』ほか)。戦国大名の三代目教育として象徴的な場面である。

宇山久兼の悲劇 ― 私財を投じた忠臣の最期

第二次月山富田城の戦いで、毛利の兵糧攻めが厳しさを増した永禄9年(1566年)正月、尼子の重臣・宇山久兼は私財を投じて海から兵糧を運び入れ、城内の兵に与えて士気を鼓舞した。しかし大塚与三右衛門の讒言により「謀反の疑い」をかけられ、義久の手で殺害されてしまった。城内最大の忠臣を主君自身が手にかけた事件は、毛利の離間策が完全に機能した瞬間でもあった。この事件以後、城内の猜疑心は歯止めが効かなくなり、脱走兵が日ごとに増えていった。

毛利元就の「降伏者皆殺し」から「粥の炊き出し」への転換

第二次月山富田城の戦いで、毛利元就は当初、降伏する尼子方の兵を皆殺しにする方針を取った。これは城内の食料消費を早める意図であり、また「降伏しても命は助からない」という恐怖を浸透させる狙いがあった。城内の士気が完全に落ちたと判断した段階で、元就は方針を一転し、粥を炊き出して降伏を誘った。投降すれば食事と命が保証されるという信号は、餓死寸前の城兵にとっては抗いがたい誘惑となり、投降者は雪崩を打って続出した。心理戦と兵糧攻めを両輪で進めた元就の戦術の見事さを示すエピソードとして語り継がれる。

尼子経久の死と第一次の引き金

第一次月山富田城の戦いの直接の引き金の一つが、天文10年(1541年)11月の尼子経久の死であった。尼子氏中興の祖と謳われた経久は83歳の高齢で没し、後継者の晴久が孫として家督を継いだ。経久という精神的支柱を失った尼子氏は、同年の吉田郡山城の戦いの敗北と相まって、外見上「攻めるなら今」の隙が見えた。大内義隆が出雲遠征に踏み切った背景には、この経久の死が決定的な意味を持っていた。

義久兄弟の隠棲 ― 戦国期の異例の処遇

第二次の開城後、尼子義久・倫久・秀久の三兄弟は自害を求められず、安芸・長田(現・広島県山県郡安芸太田町)で隠棲生活を送ることになった。三兄弟は毛利氏の保護のもと、長田で平穏に暮らし、義久は天正18年(1590年)に72歳で病没するまで生き続けた。戦国期の敗将処遇としては破格の寛大さであり、毛利元就の戦国大名としての成熟と、出雲守護家の血統への配慮を示すエピソードとして語られる。

山中鹿介の三日月への祈り

尼子氏滅亡後、再興を志した山中鹿介幸盛は、三日月に向かって「我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったと伝わる。主家再興という困難な道を歩む覚悟を、神仏に苦難を求めるという逆説的な祈りで示した有名な伝承である。鹿介は尼子勝久を擁立して再興運動を起こし、月山富田城を取り戻すべく転戦したが、最終的には天正6年(1578年)に備中松山の阿井の渡しで殺害された。出典は近世以後の軍記・読本類で、史実性には議論があるが、日本武士道精神の典型として語り継がれた。

時系列

和暦(西暦)できごと
天文10年(1541)吉田郡山城の戦い。尼子晴久が毛利元就の本拠を攻めるが、大内方の援軍を得た毛利の善戦により大敗。安芸・備後・石見の国人衆が大内方に転じる。同年11月、尼子経久が83歳で死去。
天文11年1月(1542.1)大内義隆、出雲遠征を決断。1月11日に山口を出陣。1月19日に厳島神社で戦勝祈願。総兵力 約4万5千(諸説あり)。毛利元就・隆元父子も従軍。
天文11年4月〜7月(1542.4〜7)大内軍、出雲に侵入。赤穴城の攻略に6月7日〜7月27日まで約50日を要する。
天文11年10月(1542.10)大内軍、三刀屋峰に本陣を構える。
天文12年2月(1543.2)大内軍、京羅木山に本陣を移す。月山富田城を望む対岸の地。両軍、富田川を挟んで対峙。
天文12年3月(1543.3)大内軍、月山富田城への総攻撃を開始。御子守口・塩谷口・菅谷口の三方向から攻めるが、城方の堅守と狭隘な登城路に阻まれて難航。
天文12年4月末(1543.4末)三刀屋久扶・三沢為清・本城常光・吉川興経ら、大内方から尼子方へ寝返り。大内軍の劣勢が決定的に。
天文12年5月7日(1543.5.7)大内義隆、全軍撤退を決定。各部隊が別経路で撤退。海路を取った大内晴持が船転覆で溺死(享年20)。毛利元就・隆元父子は石見大江坂七曲で尼子軍の追撃を受け、家臣の渡辺通らが身代わりとなって戦死。
天文23年(1554)尼子晴久、家中の新宮党(尼子国久ら)を粛清。約3000の精鋭戦力を失う。毛利元就の謀略との関わりが諸書に伝わる。
弘治元年(1555)10月厳島の戦い。毛利元就が陶晴賢を破る。
弘治3年(1557)毛利元就の防長経略で大内義長が自害。大内義隆の死から6年で大内氏完全滅亡。
永禄3年(1560)12月尼子晴久、47歳で急死。子の尼子義久が家督を継承。
永禄5年(1562)毛利元就、出雲・伯耆方面への本格侵攻を開始。
永禄6年〜7年(1563〜64)毛利軍、宍道湖北岸の白鹿城を攻略。月山富田城の補給路を遮断。
永禄8年4月(1565.4)第二次月山富田城の戦い開始。毛利軍 約3万が3方向から総攻撃。輝元(初陣)が御子守口、吉川元春が塩谷口、小早川隆景が菅谷口を担当。十日経過しても落とせず、いったん撤退。
永禄8年9月(1565.9)毛利元就、戦術を兵糧攻めに転換。周辺に付城を築いて補給路を完全に遮断。海上は毛利水軍が封鎖。
永禄9年正月(1566.1)尼子の重臣・宇山久兼が大塚与三右衛門の讒言で謀反の疑いをかけられ、義久に殺害される。城内の崩壊加速。
永禄9年6月(1566.6)城内で餓死者が出始める。戦闘継続が不可能に。元就は粥を炊き出して降伏を誘う。投降者続出。
永禄9年11月21日(1566.11.21)尼子義久、降伏を申し出る。11月28日、月山富田城が開城。籠城兵は当初約1万から約300人にまで激減していた。
永禄9年12月〜義久・倫久・秀久兄弟、自害を求められず、安芸・長田で隠棲生活へ。毛利元就の寛大な処遇。
永禄12年(1569)山中鹿介幸盛、尼子勝久を擁立して隠岐から出雲へ上陸。尼子再興軍を起こす。一時は月山富田城に迫る勢いを見せる。
永禄13年2月14日(1570.3.20)布部山の戦い。毛利輝元・吉川元春・小早川隆景率いる毛利軍が尼子再興軍を撃破。翌2月15日、月山富田城(毛利方守備)の包囲が解かれる。
天正6年7月(1578.7)上月城で尼子勝久が自害。山中鹿介も備中松山の阿井の渡しで殺害される。尼子再興運動の終焉。
天正18年(1590)尼子義久、長田で病没。享年72。寛大な処遇のまま天寿を全うした。
元和元年(1615)一国一城令により月山富田城は廃城。出雲の中心は松江城へと移る。

両軍主要人物

第一次(1542〜1543)

大内方(攻め手)

人物立場関係
大内義隆総大将・大内氏当主遠征を決断し、自ら総大将として出陣。敗戦と養嗣子の死で戦意を喪失。
大内晴持義隆の養嗣子撤退戦で船転覆により溺死(享年20)。義隆を絶望させ、大寧寺の変の遠因に。
陶隆房武断派筆頭・周防守護代出雲遠征を主張した武断派の中心。力攻めを主張して敗因の一翼に。
杉重矩豊前守護代大内軍の一翼を率いる。
内藤興盛長門守護代大内軍の一翼を率いる。
冷泉隆豊大内家臣もとは文治派で遠征に反対したが、義隆に従って出陣。
弘中隆兼大内家臣大内軍の一翼を率いる。
毛利元就安芸の国人領主大内軍に従軍。撤退戦で殿軍を命じられ、死を覚悟する危機に陥る。第二次の戦訓となる経験を得た。
毛利隆元元就の嫡男元就とともに従軍。撤退戦の窮地を父と共に経験。
渡辺通毛利家臣大江坂七曲で元就の身代わりとなって壮烈に戦死。毛利家中の忠死の代表例。

尼子方(守り手)

人物立場関係
尼子晴久尼子氏当主・籠城軍総大将祖父・経久の没後を継ぐ。月山富田城に籠もり、大内軍の力攻めを撃退。第一次最大の勝者となる。
尼子誠久(新宮党)尼子家門尼子経久の孫。第一次で新宮党を率い、菅谷口で大内方の益田藤兼・平賀隆宗の軍勢と戦う。
三刀屋久扶出雲国人大内方から尼子方へ寝返った国人衆の一人。
三沢為清出雲国人同上。寝返りで大内軍の劣勢を決定づけた。
本城常光石見国人同上。寝返りに加わり、大内軍の動揺を加速。
吉川興経安芸吉川氏当主同上。吉川氏は後に毛利元就の次男・元春が家督を継いで毛利方に取り込まれる。

第二次(1565〜1566)

毛利方(攻め手)

人物立場関係
毛利元就総大将・毛利氏実質の主第一次の戦訓を活かし、力攻めを放棄して兵糧攻めに転換。約1年半で開城に追い込む。
毛利輝元元就の孫・嫡孫初陣。御子守口を担当し、岩倉への迎撃を志願したと伝わる。
吉川元春元就の次男・吉川氏当主塩谷口を担当。苦戦するも兵糧攻めに転換した後、補給遮断に貢献。
小早川隆景元就の三男・小早川氏当主菅谷口を担当。元就の戦略を支える毛利両川の中核。
福原貞俊毛利家臣鉄砲隊を率いて海岸線の守りを担当。海上補給路の遮断に貢献。

尼子方(守り手)

人物立場関係
尼子義久尼子氏最後の当主・籠城軍総大将晴久の子。1年半の籠城の末に降伏。自害を求められず、安芸・長田で隠棲。1590年に72歳で病没。
尼子倫久義久の弟義久と共に籠城・降伏・隠棲。
尼子秀久義久の弟同上。
宇山久兼尼子家重臣私財を投じて海から兵糧を運び入れたが、讒言により義久に殺害される。城内崩壊の決定打。
亀井秀綱尼子家臣毛利の調略により降伏。
牛尾幸清尼子家臣同じく毛利方に降伏。
山中鹿介尼子家臣・後の再興運動の中心第二次では籠城軍の主力ではないが、降伏後に尼子再興運動を起こし、月山富田城の奪還を目指す。

関連史跡マップ・旅行モデルコース

月山富田城ゆかりの地は、城本体のある島根県安来市広瀬町を中心に、第一次撤退戦の舞台となった石見大江坂七曲(島根県大田市温泉津町)、毛利元就の本拠であった吉田郡山城跡(広島県安芸高田市)、第二次の補給路となった白鹿城跡(島根県松江市)など、出雲・石見・安芸の3国にまたがって広がっています。月山富田城は国指定史跡として整備が進み、戦国期最大級の山城遺構を実地に体感できる場所です。

モデルコース①:月山富田城・本城徹底コース(1日)

月山富田城の本体を徹底的に巡る、戦国山城ファン向けのコース。

  • JR安来駅 → バス約30分 → 月山富田城跡(島根県安来市広瀬町)(千畳平・太鼓壇・山中御殿・三の丸・二の丸・本丸を徒歩で巡る)→ 安来市立歴史資料館(月山富田城関連の総合展示)→ 巌倉寺(堀尾吉晴の墓所)→ 帰路

モデルコース②:第一次撤退戦の道コース(1日)

第一次月山富田城撤退戦で渡辺通らが戦死した道を辿るコース。

  • JR安来駅 → 月山富田城跡 → 出雲意宇郡出雲浦(晴持遭難地伝承)→ JR大田市駅 → 大田市温泉津町小浜の七騎坂(大江坂七曲・渡辺通らが戦死した地)→ 温泉津温泉(旅情を味わいながら宿泊)→ 帰路

モデルコース③:毛利方の進撃路コース(1〜2日)

第二次月山富田城の戦いで毛利元就が辿った進撃路を訪ねるコース。

  • 1日目:JR広島駅 → 吉田郡山城跡(広島県安芸高田市)(毛利元就の本拠。出陣の地)→ 安芸高田市歴史民俗博物館(毛利氏関連の総合展示)→ JR松江駅 泊
  • 2日目:JR松江駅 → 白鹿城跡(島根県松江市法吉町)(第二次の前哨戦の舞台)→ 月山富田城跡(第二次の決戦地)→ 帰路

モデルコース④:両戦を縦断する広域コース(2泊3日〜)

第一次・第二次の両戦の主要史跡を縦断する広域コース。

  • 1日目:広島県安芸高田市・吉田郡山城跡(毛利元就の本拠)→ JR山口駅へ → 大内氏館跡(龍福寺)大寧寺(大内義隆ゆかりの地)→ 山口泊
  • 2日目:JR松江駅 → 白鹿城跡 → 月山富田城跡(本体徹底見学)→ 安来泊
  • 3日目:JR安来駅 → 大田市温泉津町・七騎坂 → 温泉津温泉 → 帰路

対象者別アレンジ

  • 歴史初心者:モデルコース①の月山富田城本体コース。本丸まで徒歩約1時間。整備が進んでいるので歩きやすい。
  • 戦国山城ファン:モデルコース①に加え、近隣の白鹿城跡・新山城跡なども巡ると、尼子氏の防衛体制が体感できる。
  • 毛利元就ファン:モデルコース③〜④で、吉田郡山城(第一次出陣地)→ 月山富田城(敗北の地)→ 白鹿城(再戦の前哨)→ 月山富田城(勝利の地)の流れを辿ると、元就の生涯における月山富田城の意味を実地で確認できる。
  • 大内氏ファン:モデルコース④の縦断コース。大内文化(山口)から大寧寺、月山富田城、温泉津・七騎坂までを巡ると、大内氏滅亡への流れを体感できる。
  • 温泉派:玉造温泉・温泉津温泉・湯田温泉などを組み合わせれば、史跡めぐりと湯治を両立できる。

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参考情報

一次史料・準一次史料

  • 『毛利家文書』 ― 毛利家伝来の文書群。第一次の従軍記録、第二次の戦況報告など、両戦の毛利方の動向を伝える。
  • 『萩藩閥閲録』 ― 毛利家家臣団の系譜・由緒を集成。渡辺通ら身代わり戦死した家臣の記録を含む。
  • 大内氏発給文書 ― 第一次の遠征関連の同時代史料。山口県文書館などに収蔵。
  • 尼子氏関連文書 ― 月山富田城関連の同時代史料群。安来市の郷土資料として伝来。

編纂史料

  • 『大内義隆記』 ― 大内義隆の生涯を扱った軍記物語。第一次月山富田城の戦いの経緯と、晴持遭難死の場面を伝える。
  • 『陰徳太平記』 ― 江戸中期成立の軍記物。香川宣阿の編纂。両戦の詳細な経緯を記す代表的史料。国人衆寝返りの場面や山中鹿介の活躍などを伝える。
  • 『元就軍記』 ― 毛利元就の事跡を扱う軍記。第二次の輝元初陣など、毛利方の視点からの記述を伝える。
  • 『雲陽軍実記』 ― 尼子氏の事跡を中心とする近世編纂物。月山富田城関連の伝承を集成。
  • 『大日本史料』(東京大学史料編纂所編纂) ― 両戦関連の諸史料を年代順に収録。

学術書・研究書

  • 福尾猛市郎『大内義隆』人物叢書、吉川弘文館、1989年新装版 ― 第一次月山富田城の戦いを大内側から論じる代表的研究書。
  • 藤井崇『大内義隆』ミネルヴァ日本評伝選 ― 最新の研究成果を踏まえた義隆評伝。
  • 長谷川博史『大内氏の興亡と西日本社会』列島の戦国史3、吉川弘文館 ― 大内氏の領国経営と月山富田城の戦いの戦略的位置づけを論じる。
  • 河合正治『安芸毛利一族』新人物往来社 ― 毛利氏研究の基本書。元就の月山富田城の戦いとの関わりを論じる。
  • 長谷川博史『毛利元就』ミネルヴァ日本評伝選 ― 第二次月山富田城の戦いを毛利元就の生涯の中で位置づける研究書。
  • 米原正義『戦国武士と文芸の研究』桜楓社 ― 尼子氏研究の基本書。経久・晴久・義久三代の動向を含む。
  • 本多博之『戦国大名尼子氏研究の最前線』戎光祥出版 ― 尼子氏研究の最新成果。新宮党粛清の評価などを含む。

公的機関資料・博物館

  • 月山富田城跡(島根県安来市広瀬町) ― 国指定史跡。戦国期最大級の山城遺構を有する。本丸まで登山道が整備されている。
  • 安来市立歴史資料館(島根県安来市) ― 月山富田城関連の総合展示。両戦の経過と尼子氏の生涯を学べる。
  • 島根県立古代出雲歴史博物館(島根県出雲市) ― 出雲国全般の歴史展示。尼子氏関連資料を所蔵。
  • 巌倉寺(島根県安来市広瀬町) ― 月山富田城下の古刹。江戸期に城主となった堀尾吉晴の墓所がある。
  • 安芸高田市歴史民俗博物館(広島県安芸高田市吉田町) ― 毛利氏関連の総合展示。元就の月山富田城の戦いとの関わりを学べる。
  • 白鹿城跡(島根県松江市法吉町) ― 第二次の前哨戦となった尼子方の支城。市指定史跡。
  • 大田市温泉津町・七騎坂(島根県大田市) ― 第一次撤退戦で渡辺通らが戦死した地。供養塔がある。

その他参考資料

  • 各種事典・データベース(『国史大辞典』『日本史広辞典』ほか)の「月山富田城の戦い」「尼子氏」「尼子経久」「尼子晴久」「尼子義久」「山中鹿介」項。
  • 『日本歴史地名大系』島根県・広島県・山口県の各巻 ― 月山富田城・吉田郡山城・大寧寺ゆかりの地名・史跡の解説。
  • NHK大河ドラマ『毛利元就』(1997年) ― 第一次・第二次両戦を毛利元就の生涯の中で描いた代表的映像作品。
  • 月山富田城・尼子氏・山中鹿介に関する歴史読み物・特集記事。

※本記事は2026年5月時点の研究成果に基づいています。月山富田城の戦いについては、両戦の兵力規模、国人衆寝返りの動機、新宮党粛清の背景、尼子再興運動の評価など、多くの論点について諸説が並立しています。とくに尼子氏研究は近年活発に進められており、本多博之らによる研究成果の蓄積が続いています。新史料の発見や論考の進展により、評価が変わる可能性があります。

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