天文17年(1548年)2月8日 ― 慶長15年(1610年)10月18日 | 享年63
3行でわかるこの人物
- 徳川家康に仕えた「徳川四天王」の一人で、生涯57回の合戦でかすり傷一つ負わなかったと伝わる「東国無双」の猛将
- 愛槍「蜻蛉切」を携え、姉川・三方ヶ原・長篠・小牧・長久手など徳川家のほぼ全ての主要合戦に従軍した
- 関ヶ原の戦いの後は伊勢桑名10万石の初代藩主として「慶長の町割り」を断行し、桑名藩創設の名君と仰がれた
本筋説 ― 教科書に載っている定説ベースの解説
三河武士の家に生まれて(1548〜1559)
本多忠勝は天文17年(1548年)2月8日、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で、安祥松平家(徳川本家)譜代の家臣・本多忠高の長男として生まれた。幼名は鍋之助、通称は平八郎。
本多家は代々松平家に仕える譜代の武門であった。祖父・忠豊は天文14年(1545年)の第二次安祥合戦で、家康の父・松平広忠の身代わりとなって殿軍を務めて討死。続いて天文18年(1549年)の第三次安祥合戦では父・忠高もわずか1歳の忠勝を遺して戦死している。父・祖父二代続けての主君殉死は、忠勝のその後の生き方に決定的な影響を与えた。父を失った忠勝は、叔父・本多忠真のもとで厳しく育てられた。
幼くして家康に仕えた忠勝は、永禄3年(1560年)13歳のとき、桶狭間の戦いの前哨戦である「大高城兵糧入れ」で初陣を飾った。このとき同時に元服し、「ただ勝つのみ」という意味を込めて「忠勝」と名付けられたと伝わる。初陣ではまだ首級を挙げることができず、敵将に討ち取られそうになったところを叔父・忠真に救われたという。翌永禄4年(1561年)の烏屋根攻めで初めて首級を挙げたとき、叔父・忠真が自身が組み伏せた敵の首を譲ろうとしたのに対し、忠勝は「我なんぞ人の手を借りて武功を立てんや」と答え、自ら敵陣に突っ込んで首を取ってきたと『名将言行録』は伝える。
三河一向一揆と旗本先手役抜擢(1563〜1569)
永禄6年(1563年)、家康の三大危機の一つとされる三河一向一揆が勃発した。本多一族の多くが一向宗(浄土真宗)信徒として一揆方に与する中、忠勝は信仰を浄土宗に改めてまで家康側に残り、一揆鎮圧に奔走した。当時、信仰の変更は容易なことではなかったが、忠勝の家康に対する忠誠心はそれを上回るものだった。
この活躍を高く評価した家康は、永禄9年(1566年)、わずか19歳の忠勝を直轄の親衛隊「旗本先手役」に抜擢し、与力54騎を預けた。これ以降、忠勝は常に家康の居城下に住み、徳川軍の中核として戦場を駆けることになる。
姉川の戦い ― 真柄十郎左衛門との一騎討ち(1570)
元亀元年(1570年)、織田・徳川連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍が激突した姉川の戦いで、忠勝は朝倉軍を相手にする徳川軍の先鋒として奮戦した。徳川軍が朝倉軍の戦術に翻弄され、家康本陣付近まで侵攻を許す危機に陥ったとき、忠勝は無謀とも思える単騎駆けを敢行。必死に忠勝を救おうとする徳川軍の動きがそのまま反撃となって朝倉軍を討ち崩した。
この戦いで忠勝は、朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せた。結局忠勝は十郎左衛門を討ち取ることはできなかったが(後に向坂式部らが討ち取ったとされる)、堂々と渡り合ったその戦いぶりは「東国無双の勇士」としての名声を確立する契機となった。
→ 詳しくは合戦記事「姉川の戦い」を参照
一言坂の殿軍と三方ヶ原の生還(1572)
元亀3年(1572年)、武田信玄が西上作戦を開始し、徳川領に侵攻した。三方ヶ原の戦いの前哨戦である「一言坂の戦い」で、偵察隊として先行した忠勝の軍は武田軍と遭遇。忠勝は殿軍となって不利な地形にもかかわらず奮戦し、家康本陣を無事撤退させることに成功した。
このときの忠勝の勇姿を見た武田方の小杉左近が、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という狂歌の落書を残したと伝わる。「唐の頭」とは当時徳川家中で流行っていたヤクの尾毛で飾った高価な兜のことで、その兜と忠勝のどちらも家康にはもったいない、という敵将からの最大級の賛辞であった。
同年12月、家康最大の敗戦となる三方ヶ原の戦いで武田軍に徳川軍が壊滅的敗北を喫した際も、忠勝は退却戦で奮戦し、家康を浜松城まで無事に撤退させた。この働きに家康は「八幡大菩薩の再来だ」と感嘆したと伝わる。
→ 詳しくは合戦記事「三方ヶ原の戦い」を参照
長篠・伊賀越え ― 蜻蛉切と共に(1575〜1582)
天正3年(1575年)、織田・徳川連合軍と武田勝頼が激突した長篠の戦いでも、忠勝は徳川軍の主力として参戦した。武田方の内藤昌豊が家康の本陣めがけて突撃した際、忠勝は愛槍・蜻蛉切でこれを防戦したと伝わる。長篠で武田騎馬軍団が壊滅したことで、徳川家を長年苦しめた武田の脅威はほぼ取り除かれた。
→ 詳しくは合戦記事「長篠の戦い」を参照
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発。このとき家康は少数の供回りだけを連れて堺に滞在しており、織田信長の死を知って自害しようとした。これを諫めて翻意させたのが忠勝であった。忠勝は蜻蛉切を手に一行を先導し、伊賀の山道を抜けて三河まで無事に帰還を果たした(「神君伊賀越え」)。家康の天下取りへの道は、ここで忠勝に命を救われたことから始まったと言ってよい。
小牧・長久手 ― 500騎で秀吉を止めた男(1584)
天正12年(1584年)、織田信雄と羽柴秀吉の対立から始まった小牧・長久手の戦いは、家康にとって秀吉との唯一の直接対決となった。長久手の本戦で池田恒興・森長可ら秀吉軍の主力部隊が壊滅すると、激怒した秀吉は自ら3万の大軍を率いて出陣する。
このとき小牧の留守を預かっていた忠勝は、徳川軍が劣勢にあると知るや、家臣の制止を振り切ってわずか500騎で出陣。5町(約500m)先で秀吉の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川に単騎で乗り入れて悠々と馬の口を洗わせた。この豪胆な振る舞いを見た秀吉軍はかえって進撃をためらい、戦機は去ったと伝わる。
秀吉は忠勝の姉川以来の武勇を知っており、配下が「忠勝を討ち取るべし」と進言したのに対し、目に涙を浮かべて「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、軍を喰い止めて家康を遠ざけるためであろう。徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」と忠勝の討ち取りを禁じたという(『名将言行録』)。後に秀吉は忠勝を「日本第一、古今独歩の勇士」「東に本多忠勝、西に立花宗茂、東西無双」と最大級の言葉で讃えた。
→ 詳しくは合戦記事「小牧・長久手の戦い」を参照
関東移封と大多喜10万石(1590)
徳川家が豊臣政権下に入った天正14年(1586年)、忠勝は従五位下・中務大輔(なかつかさのたいふ)に叙任された。以後「本多中務」の名で呼ばれることになる。天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、忠勝は上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石を与えられた。これは家臣団中、井伊直政の12万石に次ぐ第2位の高禄であった。
江戸から距離のある房総半島に配置されたのは、「譜代の将は敵が攻めてくる国境に置く」という家康の方針によるもので、安房の里見氏に対する備えだったとされる。忠勝は大多喜城を大改修し、3層4階の天守を備えた近世城郭へと生まれ変わらせた。
関ヶ原の戦いと桑名10万石(1600〜1601)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、忠勝は東軍の軍監として家康本軍に従軍した。本多本隊の指揮は嫡男・忠政に委ね、忠勝自身は家康本陣にあって作戦指揮を担当している。戦いに先立つ前哨戦の竹ヶ鼻城攻め・岐阜城攻めに参戦し、本戦でも石田三成の重臣・島左近に敗れた中村一栄隊・有馬豊氏隊の撤退を助け、さらに吉川広家ら諸大名に井伊直政と連署の書状を送って東軍方につける工作を行った。本戦では自らわずかな手勢で90もの首級を挙げたという。
戦後、忠勝は娘婿である真田信之と共に、敵方に与した真田昌幸・信繁(幸村)父子の助命を家康に嘆願。家康と関ヶ原に遅参した秀忠は当初強硬に死罪を主張したが、忠勝らの粘り強い嘆願により、両名は紀伊国九度山への蟄居処分に減じられた。これは戦国期屈指の戦上手であった真田父子の命を救った重要な働きであった。
慶長6年(1601年)、忠勝は伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石へ移封となった。これは石高こそ同じだったが、東海道の要衝・大坂と京都への抑えという戦略的重要性が格段に高い土地への栄転であった。旧領・大多喜は次男・忠朝に5万石の別家として与えられた。一説には家康が忠勝に5万石を加増しようとしたが、忠勝が固辞したため次男に分与されたという。
→ 詳しくは合戦記事「関ヶ原の戦い」を参照
桑名藩主としての晩年(1601〜1610)
桑名に入った忠勝は、ただちに藩政の基盤づくりに着手した。揖斐川河口に4重6階の天守と51基の櫓を備えた壮大な桑名城を築き、町屋川(現・員弁川)の流れを付け替えて水害を防ぎ、雑然とした港町だった桑名を近世城下町・宿場町・港町・漁師町の四つの顔を持つ都市へと生まれ変わらせた。これが「慶長の町割り」と呼ばれる大規模都市計画事業である。築城開始当初には盟友・井伊直政も家臣を動員して普請の応援を行ったと伝わる。10年の歳月をかけたこの事業の名残は、400年以上経った現在の桑名市街にも残っている。
忠勝はまた、織田信長の焼き打ちで荒廃していた多度大社の再興にも多額の費用を投じ、東海道宿場の整備にも力を注いだ。武辺一辺倒ではない、優れた都市計画者・為政者としての一面が桑名で開花した。
一方、関ヶ原以後の徳川政権では、本多正信・正純父子ら文治派が台頭し、武断派の忠勝は次第に幕政の中枢から遠ざけられていく。忠勝は同族の正信を「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」「佐渡守の腰抜けは武人ではない」とまで罵倒し、その確執は終生解けなかった(『甲子夜話』)。
慶長14年(1609年)、忠勝は家督を嫡男・忠政に譲って隠居した。翌慶長15年(1610年)10月18日、桑名城で病没。享年63。死因は晩年からの病状から糖尿病とも推測されている。死の数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていたところ、手元が狂って左手にかすり傷を負った。生涯一度も合戦で傷を負わなかった忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と呟き、その言葉通り数日後に世を去ったと伝わる。
遺骸は桑名の浄土寺に葬られ、後に旧領・大多喜の良玄寺にも分骨された。
諸説 ― 様々な角度から可能性を探る
【諸説①】「57回無傷」の伝説は本当か
忠勝が生涯57回の合戦で一度もかすり傷を負わなかったという伝承は、江戸時代の『名将言行録』をはじめ諸書に広く記載され、忠勝の象徴的なエピソードとして語り継がれてきた。
しかし常識的に考えれば、これほど多くの激戦を経験しながら完全に無傷であり続けることは至難の業である。当時の戦場では弓矢・鉄砲も飛び交っており、まして忠勝は単騎駆けや殿軍など、最も危険な役回りを引き受けることが多かった。誇張・伝説化が含まれている可能性は高い。
実際、関ヶ原の戦いでは島津勢の鉄砲に当たって愛馬「三国黒」を失い、落馬して危うく首を取られそうになったところを家臣・梶金平に救われたという記録もある(『名刀幻想辞典』ほか)。これを「無傷」の範疇に含めるかどうかで解釈が分かれる。
また「57回」という数字自体も、どこまでを「合戦」と数えるかで変動するため、厳密な統計とは言えない。とはいえ、卓越した武技と判断力、危機管理能力によって致命傷を避け続けたことは事実であろう。「57回無傷」は数字そのものの正確性よりも、「敵の中に飛び込んでなお生還する技術と運の両方を持つ武将」というキャラクター造形として読むのが妥当である。
【諸説②】蜻蛉切の由来と名工・藤原正真の謎
忠勝の愛槍「蜻蛉切」は、穂先43.7cm、最大幅3.7cm、厚み1cmという「大笹穂槍」に分類される長大な刃を持つ槍で、柄は最盛期で約6m(二丈)に及んだ。槍の身には不動明王のカンマーン・三鈷剣・聖観音のサ・阿弥陀如来のキリーク・地蔵菩薩のカといった梵字と彫物が施され、御手杵・日本号と並んで「天下三名槍」の一つに数えられる。穂先のみが現存し、静岡県の佐野美術館に寄託されている。
号の由来には複数の説がある。一つは「穂先に止まろうとして触れた蜻蛉が真っ二つに切れた」という槍の切れ味を強調する説。もう一つは「忠勝の槍捌きが見事で、一振りすれば飛び交う蜻蛉を切り落とした」という忠勝の腕前を表す説である。「蜻蛉」は別名「勝虫」と呼ばれ、前にしか進まない姿から武人の吉祥とされていたことも、号の選択に影響したと考えられる。
作者は三河文珠派の刀工・藤原正真とされるが、この藤原正真という人物には謎が多い。「正真」の銘を持つ刀工は『古今鍛冶備考』に8名挙げられ、「三河文殊正真」「伊勢千子正真」「大和金房正真」が同一人物ではないかという説もある。仮にそうだとすると、徳川家の祟り刀として知られる「村正」と血脈的につながることになり、皮肉な縁となる。
晩年、桑名移封後の慶長6年(1601年)頃、54歳の忠勝は河原で槍の稽古をした後、蜻蛉切の柄を3尺(約90cm)切り詰めさせた。家臣がその理由を問うと、忠勝は「道具は己の力に応じたものでなければならぬ」と答えたという。これを「老いの自覚」と読むこともできるが、晩年に至ってもなお自ら槍を振るう意思表明とも読める。彫物に阿弥陀三尊系の梵字が含まれていることから、忠勝が改宗した浄土宗の信仰や、敵味方の供養の念が槍に込められていたとする見方もある。
【諸説③】「家康に過ぎたるもの」の歌は本当に小杉左近の作か
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という狂歌は、忠勝の武名を語る上で最も有名な逸話の一つである。一言坂の戦いでの忠勝の殿軍ぶりに感嘆した武田方の小杉左近が落書として残したとされる。
しかし、この狂歌が当時の一次史料に直接記録されているわけではなく、後世の編纂史料に登場するものである。敵将による賛辞という構図は徳川家の武威を強調するのに格好の素材であり、後世の脚色・拡張の可能性も否定できない。実際の作者が小杉左近本人かどうかは確定的ではなく、武田家中の誰かが詠んだものを後に小杉左近の作として整理した可能性もある。
ただし、忠勝の一言坂・三方ヶ原での働きが武田方からも一目置かれていたことは、複数の史料から窺える。歌の作者の特定は別として、忠勝の武名が敵味方を超えて鳴り響いていたという核となる事実は揺るがない。
【諸説④】秀吉の最大級の賛辞 ― 徳川方史料の創作か
小牧・長久手の戦いで秀吉が忠勝を「日本第一、古今独歩の勇士」「東に本多忠勝、西に立花宗茂」と讃えた、というエピソードは、忠勝の戦国最強伝説を裏付ける最大の根拠として語られてきた。
しかし、これらの発言が記録されているのは主に徳川方の史料(『名将言行録』『藩翰譜』など)であり、豊臣方の同時代史料には対応する記述がない。徳川家の武威を高めるための後世の脚色である可能性が指摘されている。
また、秀吉と立花宗茂を引き合いに出す逸話自体、立花宗茂が秀吉に重用されるのは九州征伐以降であり、小牧・長久手当時には宗茂はまだ十分に知名度がなかった。時系列的な不自然さもある。
ただし、織田信長が忠勝を武田征伐後に「花も実も兼ね備えた武将である」と評したという記述は、信長の信頼度の高い言行録にも見られ、こちらは比較的信頼性が高いとされる。秀吉の発言が脚色されている可能性はあっても、織田・豊臣両陣営から忠勝が高く評価されていたこと自体は確かと言える。
【諸説⑤】辞世の句は忠勝のものか、家臣・梶金平のものか
「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」という辞世の句は、忠勝の家康への忠誠心を象徴する歌として広く知られ、『名将言行録』に収められている。
しかし戦国ヒストリーなど近年の研究では、この句が実は別人のものではないかという指摘がある。江戸時代後期の雑話集『耳嚢』には、「御旗本の豪傑と呼ばれ、神君の御代戦場にて数度武功を顕したる梶金平」という人物の辞世として、ほぼ同じ内容の句が記載されている。梶金平は関ヶ原で忠勝に自分の馬を譲って救った忠勝の家臣であり、忠勝とも縁の深い人物である。
『名将言行録』が幕末から明治期にかけての編纂であることを考えると、忠勝の辞世とされてきた句は、実は梶金平の辞世を忠勝のものとして取り違えた、あるいは意図的に転用された可能性が高い。
ただし、忠勝の遺書とされる「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という」(『名将言行録』)は、忠勝の武士観・忠誠観を端的に表す言葉として、辞世の句以上に忠勝の心情を伝えていると評価されている。
【諸説⑥】関ヶ原後に「一国を望んだ」のは本当か
関ヶ原の戦後処分について、忠勝の評価には興味深い分岐がある。一つは「家康が5万石加増を打診したが、忠勝はこれを固辞して次男・忠朝に与えるよう願い、自身は10万石のまま桑名へ移った」という美談である。これは『寛政重修諸家譜』など複数の史料に見える。
一方で、別の伝承では「忠勝は関ヶ原後に一国を与えられることを望み、家臣への知行の目録まで作成して待っていたが、それは叶えられなかった。後に幕府重臣・阿部正次に対してこの話をした後、自ら目録を焼いた」とされる。こちらは『藩翰譜』などに見える。
この二つは一見矛盾するが、実は両立しうる。忠勝は内心では一国を期待していたが、結果的にそれが叶わず、表向きには「5万石加増を固辞して次男に譲った」という形で処理された、と読むこともできる。
関ヶ原以降、徳川政権の中で武断派である忠勝が次第に重用されなくなり、本多正信ら文治派が幕政の中枢を担うようになっていったことを考えると、忠勝の内心には期待と落胆が混在していたと思われる。「死にともな」の辞世の句や「侍は首を取らずとも…」の遺書は、晩年の不遇感と主君への変わらぬ忠誠心の両方を伝えている。
【諸説⑦】「戦国最強」とは槍働きか、采配か
忠勝はしばしば「戦国最強の武将」として語られる。しかし、何をもって「最強」とするかには議論がある。
一つの見方は「個人の槍働き」を重視する立場である。蜻蛉切を振るって朝倉軍に単騎駆けを敢行した姉川、武田の本陣突撃を防いだ長篠など、忠勝の名場面は一騎当千の武勇に彩られている。
もう一つは「采配」を重視する立場である。『甲子夜話』には「戦場に出て敵と戦う時の槍働きは古今無双だったが、教練などでの槍術は甚だ不器用で、戦場での忠勝を知らぬ人が見ると意外と思った」という興味深い記述がある。型通りの槍術の上手さよりも、実戦での判断力・指揮能力が忠勝の真骨頂だったということになる。配下の将たちが「忠勝の指揮で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」と称えたという逸話も、忠勝の采配力を裏付ける。
忠勝は単純な武辺者ではなく、家康から戦の相談を受けた際には情勢を冷静に分析して的確に答えた知略の人でもあった。「個人の武勇」「集団指揮」「戦況判断」の三つが揃った武将としての強さ ― それが「戦国最強」と称される所以であろう。同時代に名を馳せた立花宗茂や上泉信綱のような剣豪・槍術師とは異なる、「総合力としての強さ」が忠勝の本質と言える。
戦略的に見ると
忠勝の戦場での役割は、攻撃の主軸というよりも、家康の護衛・殿軍・防御戦が中心であった。姉川での単騎駆けは華やかだが、それさえ「家康本陣に迫る敵を引きつけて反撃の機を作る」という防御的な意図のものである。三方ヶ原での退却戦、伊賀越えでの先導、小牧・長久手での阻止戦 ― 忠勝が真価を発揮するのは、徳川家にとって最も危険な瞬間であった。「最強の盾」としての武将、それが忠勝の本質と言える。
家康が忠勝に絶大な信頼を寄せた理由は、その武勇だけではない。揺るぎない忠誠心こそが鍵であった。戦国時代には主君を裏切る家臣も少なくない中、忠勝は家康がまだ松平元康と名乗っていた人質時代から、関東移封・関ヶ原・桑名移封という徳川家の浮沈を通じて一貫して家康の側に仕え続けた。父・忠高、祖父・忠豊が松平広忠の身代わりとして殿軍を務めて討死した本多家の血脈は、忠勝においても貫かれている。「生命を差し出す覚悟を持つ者は強い」 ― この三河武士の典型こそ忠勝であった。酒井忠次・榊原康政・井伊直政と共に「徳川四天王」と呼ばれる所以である。
戦略眼にも見るべきものがある。元亀3年(1572年)、武田信玄が西上作戦を開始したとき、徳川軍8000余、織田の援軍を含めても11000で武田の27000余に対抗することになった。このとき家康に戦の相談を受けた忠勝は、冷静に情勢を分析して的確な進言を行ったとされる。また関ヶ原前夜、忠勝は井伊直政と連署で諸大名工作の書状を発しており、本戦での首級90余だけでなく、政略・外交面でも東軍勝利に寄与している。
同族の本多正信との確執は、徳川家中における武断派と文治派の対立構造の典型例として読むことができる。戦乱の時代には忠勝のような「最強の盾」が必要だったが、太平の世になると正信のような「政略の人」が中央に必要となる。忠勝はそのことを理解しつつも、武人としての矜持から正信を腰抜けと罵り続けた。これは家中の対立というよりも、時代の転換期に武人がどう生きるかという、より大きな問題の表れであった。
そして桑名藩主として晩年に見せた手腕は、忠勝の人物像を一段深いものにする。生涯を戦場で過ごした猛将が、町屋川の流路を付け替えて水害を防ぎ、雑然とした港町を四つの顔を持つ近世都市に作り変えた「慶長の町割り」は、忠勝が単なる武辺者ではなく、都市計画と統治の能力を兼ね備えた為政者でもあったことを示している。信長が忠勝を「花も実も兼ね備えた武将」と評したとき、その「実」とは戦場の武功だけでなく、こうした統治者としての資質をも見抜いていたのかもしれない。
「戦国最強」「東国無双」と称された忠勝の本質は、超人的な槍働きそのものではなく、武勇・忠誠・采配・統治の四つを高い水準で備えた「総合力」にあった。家康が天下を取った後、忠勝のような家臣を持っていたことが、徳川幕府250年の基礎の一翼を担ったと言える。
本多忠勝 名言・辞世の句
「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」
(しにともな ああしにともな しにともな ふかきごおんのきみをおもえば)
忠勝の辞世の句として『名将言行録』に収められている歌。「死にたくない、ああ死にたくない、死にたくない。主君・家康様から受けた深いご恩を思えば」という意味。生涯57回の合戦を戦い抜いた猛将が、死に臨んで「死にともな」と三度繰り返す姿は、戦場での豪胆さとは対照的に、主君への忠誠心の深さを物語っている。ただし、近年の研究ではこの句が本多忠勝のものではなく、家臣・梶金平の辞世が後世に取り違えられた可能性も指摘されている(→諸説⑤参照)。
― 出典:『名将言行録』(幕末〜明治期編纂)
「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という」
(さむらいはくびをとらずともふてがらなりとも、ことのなんにのぞみてしりぞかず、しゅくんとまくらをならべてうちじにをとげ、ちゅうせつをまもるをさしてさむらいという)
忠勝が臨終の際に残した遺書の一節とされる言葉。「侍は手柄を立てられなくても、事の難局に臨んで退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守ることこそが侍というものだ」という意味。武功や首級の数よりも、主君と運命を共にする覚悟こそが武士の本質だと喝破している。父・忠高、祖父・忠豊が松平広忠の身代わりとなって討死した本多家の血脈を踏まえると、忠勝の言葉には特別な重みがある。辞世の句以上に忠勝の心情を伝えていると評価する研究者も多い。
― 出典:『名将言行録』
「我なんぞ人の手を借りて武功を立てんや」
(われなんぞひとのてをかりてぶこうをたてんや)
永禄4年(1561年)、忠勝14歳の烏屋根攻めでの言葉。叔父・本多忠真がなかなか首級を挙げられない忠勝を不憫に思い、自分が組み伏せた敵の首を譲ろうとしたところ、忠勝はこの一言を発して敵陣に突っ込み、自ら初の首級を挙げたという。「人の手を借りた武功など、どうして自分の武功と言えようか」という意味。少年期から忠勝が持っていた武士としての矜持を象徴する逸話として伝わる。
― 出典:『名将言行録』
「道具は己の力に応じたものでなければならぬ」
慶長6年(1601年)頃、桑名移封後の54歳のとき、河原で槍の稽古をした忠勝は、城に戻ると蜻蛉切の柄を3尺(約90cm)切り詰めさせた。家臣が理由を尋ねた際の答えがこの言葉。約6mあった蜻蛉切の柄を一気に切り詰めた決断は、加齢による体力の衰えを冷静に自覚した姿とも、最後まで自ら戦う意思の表明(武器の「最適化」)とも読める。猛将の老境を象徴するエピソードとして語り継がれている。
― 出典:『甲子夜話』ほか
「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」
関ヶ原の戦いの後、東軍の福島正則が忠勝の武勇を褒め称えたとき、忠勝はこう答えたと伝わる。自慢どころか、自分の采配を否定し、敵の弱さに勝因を求めるという、武人らしからぬ謙遜(あるいは皮肉)の言葉。戦国最強と讃えられた忠勝が、決して自身の武勇を誇示しなかった姿勢を示すエピソードとして知られる。
― 出典:『名将言行録』ほか
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」
(いえやすにすぎたるものがふたつあり、からのかしらにほんだへいはち)
これは忠勝自身の言葉ではなく、忠勝を讃えた敵将の歌である。元亀3年(1572年)の一言坂の戦いで、忠勝の殿軍ぶりに感嘆した武田方の小杉左近が落書として残したとされる狂歌。「唐の頭」とは当時徳川家中で流行した高価なヤクの毛飾りの兜のこと。「家康にはもったいないものが二つある。唐の頭と本多平八(忠勝)だ」と、敵将から最大級の賛辞を贈られた逸話として広く知られている。忠勝の武名を語る上で最も有名な歌である。
― 出典:『藩翰譜』『名将言行録』ほか
逸話・エピソード集
一向宗から浄土宗への改宗
永禄6年(1563年)、家康の三大危機の一つである三河一向一揆が勃発した。当時、本多家を含む三河武士の多くは熱心な一向宗(浄土真宗)信徒であり、信仰心ゆえに家康の敵方に回る者が続出した。本多一族でも多くが一揆方に与した中、忠勝はわずか16歳で信仰を浄土宗に改めてまで家康側に残り、一揆鎮圧に奔走した。
当時、信仰の変更は身を切るような決断であった。「神仏か、主君か」の選択を主君に取った忠勝の姿勢は、家康に強い印象を与え、3年後の旗本先手役への抜擢に直結した。蜻蛉切の槍身に阿弥陀三尊系の梵字(阿弥陀如来・聖観音・地蔵菩薩)が刻まれていることは、忠勝が改宗後も浄土宗信仰を生涯持ち続けていたことを示しており、敵味方の供養の念がこの槍に込められていたとする見方もある。
14歳の家康警護 ― 清洲会見での威嚇
永禄5年(1562年)、家康が織田信長との同盟締結のため尾張の清洲城に向かったとき、見物の野次馬が押し寄せて騒然となった。このとき忠勝はわずか14歳ながら槍を手に家康の前に進み出て「我が殿は信長様との会見のためにここに来ただけだ。無礼であるぞ」と一喝。群衆を静まらせたと伝わる。後にこの話を聞いた信長は、忠勝の若年ながらの男気と忠誠心に深く感心したという。少年期から忠勝の凛とした態度は際立っていた。
鹿角脇立兜と黒糸威胴丸具足 ― 戦場での異容
忠勝の戦装束は戦国武将の中でも一際異彩を放つものだった。頭には鹿の角を模した「鹿角脇立兜」、身には漆黒の「黒糸威胴丸具足」、肩からは敵味方の供養のための大数珠を斜めに掛け、手には長大な蜻蛉切。常に黒糸縅の鎧に鹿角の兜という姿で真っ向から戦う忠勝に対し、武田の将兵は「蜻蛉が出ると蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と詠んだという。鹿角兜・黒鎧・数珠・蜻蛉切という装い全体が、忠勝の武威を視覚化する完成された「ブランド」であった。
姉川 ― 朝倉軍に単騎駆けで挑む
元亀元年(1570年)の姉川の戦いで、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対し、忠勝はわずかな手勢を率いて、無謀とも思える単騎駆けを敢行した。徳川軍は必死に忠勝を救おうとして反撃に転じ、結果として朝倉軍を討ち崩した。忠勝はこの戦いで朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門と一騎討ちで渡り合った。結局忠勝は十郎左衛門を討ち取ることはできず、後に向坂式部らが討ち取ったとされるが、無傷で生還した忠勝の武名はこの戦いで全国に轟いた。
長篠 ― 投げ捨てられた武田の旗を拾う
天正3年(1575年)の長篠の戦いで、織田・徳川連合軍の鉄砲の前に武田騎馬軍団が壊滅したとき、武田の兵士たちは敗走するに際して旗を投げ捨てて逃げたと伝わる。忠勝はそれらの旗を拾い上げ、「軍旗を捨てるとは何事か」と嘲笑したという。武田信玄の代から「最強」と謳われた武田の凋落を象徴する場面として、また忠勝の武人としての矜持を示す逸話として伝わる。
伊賀越え ― 蜻蛉切で家康を導く
天正10年(1582年)6月、本能寺の変の報を受けた家康は、わずかな供回りで堺に滞在していた。動揺した家康は自害を口にしたが、忠勝はこれを諫めて翻意させた。「ここで死んでは織田家臣として恥ずべきこと。三河に戻って光秀を討つべし」と説いたとされる。忠勝は蜻蛉切を手に一行の先頭に立ち、伊賀の山道を抜けて三河まで無事に送り届けた。徳川家最大の危機を救ったこの「神君伊賀越え」は、忠勝なしには成立しなかった。家康の天下取りは、この瞬間に忠勝に命を救われたところから始まったと言える。
小牧・長久手 ― 馬の口を洗う豪胆
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、忠勝は秀吉自らが率いる3万の大軍の前にわずか500騎で立ちはだかった。さらに忠勝は単騎で龍泉寺川に乗り入れ、悠々と馬の口を洗わせたという。この豪胆な振る舞いを見た秀吉軍は、忠勝が「わずかな兵力でこれほど落ち着いているのは何か策があるに違いない」と疑心暗鬼に陥り、進撃をためらった。配下の加藤清正・福島正則らは「忠勝を討ち取るべし」と進言したが、姉川での忠勝の単騎駆けを知っていた秀吉は涙を浮かべて「徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」と忠勝の討ち取りを禁じたという。
戦後、北条氏を降して天下統一を成し遂げた秀吉は、諸大名を集めた席で前に忠勝を呼び、源義経の家臣・佐藤四郎の甲冑を与えて「四郎は誠の勇者であった。この四郎に勝る勇者は本多忠勝の他にいない」と全国の大名の前で讃えたと伝わる。
愛馬「三国黒」と関ヶ原の窮地
忠勝の愛馬は「三国黒(みくにぐろ)」といい、後の二代将軍・徳川秀忠から贈られた名馬であった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、忠勝は石田三成方に与した島津義弘隊の鉄砲を受けて落馬し、三国黒は撃たれて死亡。忠勝も危うく首を取られそうになったが、家臣・梶金平が自分の馬を差し出してこれを救ったと伝わる。生涯無傷の伝説を誇る忠勝も、関ヶ原ではこのような危機に直面していた。三国黒の死は、忠勝にとって戦友を失うに等しい痛みであっただろう。
本多正信との確執 ― 「佐渡守の腰抜けは武人ではない」
忠勝と同族の本多正信(佐渡守)は、家康の参謀として「水魚の交わり」と評されるほど信任が厚い文治派の重臣であったが、忠勝とは終生反りが合わなかった。忠勝は正信を「あんな鷹匠あがりの腰抜けは武人ではない」「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」とまで罵倒したという(『甲子夜話』)。
正信は三河一向一揆の際に一揆方に与して一度家康のもとを離れ、流浪の末に帰参した人物であった。三河一向一揆で改宗してまで家康側に残った忠勝とは、対照的な経歴である。武断派と文治派、戦乱期と太平期、それぞれの徳に体現する両雄の確執は、徳川家中の典型的な対立構造を物語っている。家康はこの両者を巧みに使い分け、両人の力を引き出し続けた。
小松姫 ― 父譲りの「武人の妻」
忠勝の長女・小松姫(稲姫)は、家康の養女として真田昌幸の嫡男・真田信之に嫁いだ。徳川家と真田家の和解のための政略結婚であったが、小松姫は父・忠勝の気性を色濃く受け継いだ女傑であった。
関ヶ原の戦いの前、真田父子は「犬伏の別れ」で東軍・西軍に分かれた。西軍についた昌幸が孫の顔を見ようと留守の沼田城に立ち寄った際、小松姫は甲冑姿で現れ、「夫の城に、たとえ舅であっても、敵となった今は通すことはできませぬ」と門を閉ざして拒んだ。これを見た昌幸は「あれを見よ。日本一の本多忠勝の娘ほどあるぞ」と感心したと伝わる。後日、小松姫は密かに侍女を遣わして昌幸を近くの寺に案内し、孫との対面を果たさせた。武と情を兼ね備えた小松姫の姿勢は、忠勝の家庭教育の賜物であった。
関ヶ原後、流罪となった真田昌幸・幸村父子の助命嘆願に忠勝が動いたのは、娘婿の信之を守るためでもあり、小松姫の存在があったからとも言える。
桑名で都市計画者となる ― 慶長の町割り
関ヶ原以後、生涯を戦場で過ごした猛将は、桑名で意外な顔を見せる。慶長6年(1601年)に伊勢桑名10万石へ移封された忠勝は、ただちに藩政の確立に着手した。揖斐川河口に4重6階の天守と51基の櫓を備えた壮大な桑名城を築き、町屋川(現・員弁川)の流れを南に付け替えて伊勢湾に注ぐようにし、それまで水害の起きやすかった町を一変させた。雑然とした港町だった桑名を、城下町・宿場町・港町・漁師町の四つの顔を持つ近世都市へと作り変えたこの大事業は「慶長の町割り」と呼ばれ、10年の歳月を要した。400年以上経った現在も、桑名市街にはこの町割りの名残が残る。
また、織田信長の焼き打ちで荒廃していた多度大社の再興にも多額の費用を投じ、東海道宿場の整備にも力を注いだ。「桑名藩創設の名君」と呼ばれた忠勝の手腕は、武辺一辺倒の評価を覆すものであった。
最期のかすり傷 ― 「忠勝も傷を負ったら終わりだな」
慶長15年(1610年)10月、桑名城で病に伏していた忠勝は、死の数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた。手元が狂って左手にかすり傷を負った忠勝は、ふと「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と呟いたという。生涯57回の合戦で一度も傷を負わなかった猛将が、初めて負った傷が戦場ではなく日用の作業中であったという皮肉。その言葉通り、忠勝は数日後の10月18日に世を去った。享年63。
この逸話は「無傷の伝説」と「死の予兆」を結びつける物語として完璧な構造を持つため、後世の脚色も疑われる。しかし複数の史料に記録されていることから、何らかの事実を反映していると考えられる。蜻蛉切を振るって戦場を駆けた猛将らしからぬ穏やかな最期は、戦国の終焉と太平の始まりを象徴するかのようである。
本多忠勝 生涯タイムライン
| 年 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1548年 | 0歳 | 三河国額田郡蔵前で、松平家譜代の本多忠高の長男として誕生。幼名は鍋之助 |
| 1549年 | 1歳 | 父・忠高が第三次安祥合戦で戦死。叔父・本多忠真のもとで養育される |
| 1560年 | 13歳 | 大高城兵糧入れで初陣。同時に元服し「忠勝(ただ勝つのみ)」と名乗る |
| 1561年 | 14歳 | 烏屋根攻めで初の首級。「人の手を借りて武功を立てんや」 |
| 1563年 | 16歳 | 三河一向一揆勃発。一向宗から浄土宗へ改宗して家康側に残留、一揆鎮圧で奮戦 |
| 1566年 | 19歳 | 旗本先手役に抜擢、与力54騎を預けられる。徳川軍の中核となる |
| 1570年 | 23歳 | 姉川の戦い:朝倉軍に単騎駆けを敢行。真柄十郎左衛門と一騎討ち |
| 1572年 | 25歳 | 一言坂の戦い・三方ヶ原の戦い:「家康に過ぎたるもの…」の狂歌が詠まれる。家康を浜松城まで撤退させる |
| 1573年 | 26歳 | 長女・小松姫(後に真田信之室)誕生 |
| 1575年 | 28歳 | 長篠の戦い:蜻蛉切で武田方・内藤昌豊の家康本陣突撃を防戦 |
| 1579年 | 32歳 | 嫡男・本多忠政誕生 |
| 1582年 | 35歳 | 本能寺の変・伊賀越え:自害を口にした家康を諫め、蜻蛉切で先導し三河へ無事帰還 |
| 1584年 | 37歳 | 小牧・長久手の戦い:500騎で秀吉の3万に対峙。龍泉寺川で馬の口を洗う豪胆ぶりに秀吉軍が進撃をためらう |
| 1586年 | 39歳 | 従五位下・中務大輔に叙任。以後「本多中務」と呼ばれる |
| 1590年 | 43歳 | 家康の関東移封に伴い、上総国大多喜10万石を拝領。家臣団第2位の高禄 |
| 1591年頃 | 44歳 | 大多喜城を大改修、3層4階の天守を建造。城下町を整備 |
| 1589〜90年頃 | 42〜43歳 | 長女・小松姫が家康の養女として真田信之に嫁ぐ(時期に諸説あり) |
| 1600年 | 53歳 | 関ヶ原の戦い:東軍軍監として家康本陣で作戦指揮。諸大名工作・本戦で90余の首級。愛馬「三国黒」を島津勢の銃撃で失う |
| 1600年 | 53歳 | 娘婿・真田信之と共に真田昌幸・幸村父子の助命を嘆願、九度山蟄居に減刑させる |
| 1601年 | 54歳 | 伊勢桑名10万石へ移封。桑名城築城開始、「慶長の町割り」を開始。次男・忠朝に大多喜5万石が分与される |
| 1601年頃 | 54歳 | 蜻蛉切の柄を3尺切り詰めさせる。「道具は己の力に応じたものでなければならぬ」 |
| 1604年頃 | 57歳 | 病気がちとなり、幕府の中枢から退き始める |
| 1609年 | 62歳 | 家督を嫡男・忠政に譲って隠居 |
| 1610年 | 63歳 | 10月18日、桑名城で病没。享年63。死の数日前、小刀で左手にかすり傷。桑名・浄土寺に葬られる(後に大多喜・良玄寺に分骨) |
本多忠勝 家系・人物相関
家族
| 続柄 | 人物 | 概要 |
|---|---|---|
| 祖父 | 本多忠豊 | 第二次安祥合戦(1545年)で家康の父・松平広忠の身代わりとなって殿軍を務め討死 |
| 父 | 本多忠高 | 第三次安祥合戦(1549年)で討死。忠勝はわずか1歳だった |
| 母 | 小夜(植村新六郎氏義の娘) | 忠高の正室。父の戦死後、忠勝と共に叔父・忠真のもとに身を寄せた |
| 叔父 | 本多忠真 | 父を失った忠勝の養育者。三方ヶ原の戦いで殿軍を務め討死。忠勝に武士の道を厳しく教え込んだ |
| 正室 | 於久の方(松平玄鉄の娘とも) | 忠勝の妻。小松姫・忠政・忠朝らを生む |
| 長女 | 小松姫(稲姫) | 家康の養女として真田信之に嫁ぐ。「夫より預かった城に父といえども通さず」の逸話で知られる女傑 |
| 次女 | もり姫 | 奥平家昌(家康の女婿・奥平信昌の長男)に嫁ぐ |
| 嫡男 | 本多忠政 | 2代桑名藩主、後に播磨姫路藩15万石。大坂の陣で武勲。嫡男・忠刻は家康の孫・千姫を娶る |
| 次男 | 本多忠朝 | 大多喜5万石を相続。大坂夏の陣で討死。酒を飲んで失態を犯したとされ、忠勝に叱責された後で死を覚悟して出陣した逸話で知られる |
| 娘婿 | 真田信之 | 真田昌幸の嫡男、真田幸村の兄。小松姫の夫。関ヶ原では東軍に与し、上田藩・松代藩初代藩主として明治まで続く真田家の基盤を築く |
主要家臣・同盟者・敵対者
| 関係 | 人物 | 概要 |
|---|---|---|
| 主君 | 徳川家康 | 人質時代から最晩年まで一貫して仕えた主君。忠勝を「八幡大菩薩の再来」と讃えた |
| 徳川四天王 | 酒井忠次 | 家康譜代の最古参。徳川四天王筆頭格。忠勝より20歳年長 |
| 徳川四天王 | 榊原康政 | 同年配の盟友。関東移封では上野館林10万石。武断派として忠勝と並び称される |
| 徳川四天王 | 井伊直政 | 「井伊の赤備え」で知られる若手の出世頭。家臣団第1位の12万石。桑名城築城を家臣動員で支援。関ヶ原では諸大名工作で忠勝と連署 |
| 同族(不仲) | 本多正信 | 家康の謀臣、文治派の重鎮。「水魚の交わり」と称されるほど家康の信任厚かったが、忠勝は「腰抜け」と罵倒した |
| 同族 | 本多広孝 | 三河田原城主。蜻蛉切を作刀した藤原正真が田原文殊派の流れであることから、忠勝と藤原正真をつないだ縁の人物とされる |
| 家臣(家老) | 梶金平(勝忠) | 能見松平氏の流れ。忠勝の与力。関ヶ原で愛馬・三国黒を失った忠勝に自分の馬を譲って救った。「死にともな」の辞世が実は彼のものではないかという説がある |
| 家臣(家老) | 都築又五郎 | 忠勝が旗本先手役に抜擢された際の与力50騎の一人。代々家老として本多家を支えた |
| 付家老 | 織田忠寛(信長庶弟) | 天正19年頃、家康の命で忠勝に付家老として配属された。後に忠勝死去に際して殉死 |
| 同時代の好敵手 | 豊臣秀吉 | 小牧・長久手で対峙した宿敵にして、忠勝を「日本第一、古今独歩の勇士」と讃えた英雄 |
| 敵将(讃辞) | 織田信長 | 武田征伐後、忠勝を「花も実も兼ね備えた武将」と讃えた。同盟者として20年にわたり徳川家と関わった |
| 敵将(讃辞) | 小杉左近 | 武田信玄の近習。一言坂の戦いで忠勝の殿軍ぶりを見て「家康に過ぎたるもの…」の狂歌を残したとされる |
| 敵将(一騎討ち) | 真柄十郎左衛門 | 姉川の戦いで朝倉軍の豪傑として知られ、忠勝と一騎討ちで渡り合った |
| 主要な敵 | 武田信玄・武田勝頼 | 三方ヶ原・長篠・高天神城など、忠勝のキャリアの大部分を費やした宿敵 |
| 主要な敵 | 浅井長政・朝倉義景 | 姉川の戦いで対峙。忠勝はここで「東国無双」の武名を確立 |
| 関ヶ原西軍 | 石田三成・島左近・島津義弘 | 関ヶ原の本戦で対峙。島左近に敗れた東軍部隊の撤退を助け、島津勢の銃撃で愛馬・三国黒を失う |
関連史跡マップ・旅行モデルコース
関連史跡マップ ― 本多忠勝
マップ上のスポット:
- 岡崎城・本多忠勝像(城・像)― 忠勝が生まれ育った三河の中心。岡崎公園内に鹿角脇立兜の騎馬像が建つ
- 大樹寺(菩提寺)― 松平家・徳川家代々の菩提寺。三河武士の精神的拠り所
- 姉川古戦場(古戦場)― 23歳の忠勝が単騎駆けで武名を確立した戦場(滋賀県長浜市)
- 三方ヶ原古戦場・犀ヶ崖(古戦場)― 家康最大の敗戦で忠勝が殿軍を務めた地(静岡県浜松市)
- 長篠古戦場(古戦場)― 蜻蛉切で武田の本陣突撃を防いだ戦場(愛知県新城市)
- 大多喜城跡(城)― 関東移封後、忠勝が最初に城主を務めた上総10万石の居城(千葉県夷隅郡大多喜町)
- 長久手古戦場(古戦場)― 500騎で秀吉軍に対峙した小牧・長久手の戦場(愛知県長久手市)
- 関ヶ原古戦場・本多忠勝陣跡(古戦場・陣跡)― 53歳の忠勝が東軍軍監を務めた決戦の地(岐阜県不破郡関ケ原町)
- 桑名城跡(九華公園)・本多忠勝像(城・像)― 忠勝が初代藩主を務めた桑名藩の城跡。三の丸跡の柿安コミュニティパークに騎馬像
- 七里の渡し跡(宿場跡)― 忠勝が整備した東海道42番目の宿場、桑名宿の象徴的史跡
- 多度大社(神社)― 信長の焼き打ちで荒廃したのを忠勝が再興(三重県桑名市多度町)
- 浄土寺(菩提寺)― 桑名の本多忠勝本廟。慶長の町割りで現在地へ移転(三重県桑名市清水町)
- 良玄寺(墓所)― 大多喜の本多忠勝分骨墓所(千葉県夷隅郡大多喜町)
- 佐野美術館(博物館)― 蜻蛉切の穂先が寄託・展示されている美術館(静岡県三島市)
※ 地図は現代の道路に基づく参考表示です。戦国時代の道路・地形とは異なります。
旅行モデルコース ― 東国無双の足跡を辿る2日間
前提条件
- 所要時間:2日間(車)
- 1日目:三河・尾張(忠勝の出発点と若き武名の地)
- 2日目:伊勢・桑名(藩主としての晩年の地)
- 各スポット滞在:30分〜2時間程度
1日目:忠勝の出発点を訪ねる
① 岡崎城・本多忠勝像(滞在:約90分)
忠勝が生まれ育った三河の本拠地。岡崎公園内に鹿角脇立兜を被った騎馬像が立ち、忠勝の武威を今に伝える。家康館で三河武士団の歴史を学べる。
– 起点:JR岡崎駅からバス約15分
② 大樹寺(滞在:約30分)
松平家・徳川家代々の菩提寺。家康が桶狭間敗戦後に自害を覚悟して駆け込んだ寺としても知られる。三河武士の精神の源流に触れられる。
– 車:岡崎城から約15分
③ 長久手古戦場公園(滞在:約60分)
天正12年(1584年)、忠勝が500騎で秀吉の3万に対峙した戦場。秀吉に「日本第一」と讃えられた忠勝の豪胆ぶりを偲ぶ。
– 車:岡崎から約60分
④ 長篠古戦場・設楽原(滞在:約90分)
天正3年(1575年)、蜻蛉切で武田勢の本陣突撃を防いだ戦場。馬防柵が復元され、戦国期最大級の戦闘の様子を体感できる。設楽原歴史資料館も併設。
– 車:長久手から約100分
2日目:藩主としての晩年の地を辿る
⑤ 桑名城跡(九華公園)・本多忠勝像(滞在:約60分)
忠勝が初代藩主として10年の歳月をかけて築いた桑名城。本丸・二の丸跡が九華公園として整備されている。三の丸跡の柿安コミュニティパークに、鹿角脇立兜の騎馬像が立つ。
– 車:長篠から約120分(または長久手から約100分)
⑥ 七里の渡し跡(滞在:約30分)
忠勝が整備した桑名宿の象徴。歌川広重の浮世絵にも描かれた東海道の難所。
– 徒歩:九華公園から約10分
⑦ 浄土寺(本多忠勝本廟)(滞在:約30分)
忠勝の墓所。慶長の町割りで現在地へ移転した桑名藩主本多家の菩提寺。
– 徒歩:七里の渡しから約15分
⑧ 多度大社(滞在:約60分)
忠勝が私財を投じて再興した神社。「上げ馬神事」で知られる古社で、馬と縁の深い武人・忠勝らしい寄進である。
– 車:浄土寺から約20分
対象者別アレンジ
- 健脚向け:大多喜城跡(千葉県)と良玄寺を加え、3日間で忠勝の全居城を制覇するコース。大樹寺では家康の足跡も追える
- ゆったり派:岡崎城+桑名城跡の2か所に絞った1日コース。各地に「本多忠勝像」があるので比較するのも楽しい
- 蜻蛉切探訪派:静岡県三島市の佐野美術館で蜻蛉切の穂先(本歌)を観た後、長篠・三方ヶ原を巡る半日コース
- 小松姫探訪派:桑名から信州上田市・松代を訪ね、娘・小松姫の墓所と真田信之・松代藩の史跡を巡る
※ 本プランは一般的な移動速度・滞在時間をもとに作成した参考モデルです。施設の営業時間・交通ダイヤ・混雑状況は季節や曜日によって変動します。お出かけの際は最新情報を各施設・交通機関の公式サイトでご確認ください。
※ 入山料・入館料等は記載時点の参考価格です。変更されている場合があります。
※ 蜻蛉切は常設展示ではなく、佐野美術館での特別展開催時のみ公開されます。訪問前に展示情報を必ずご確認ください。
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- 高天神城の戦い(1581年) ― 徳川による武田領切り取りの一環として参戦
- 本能寺の変(1582年) ― 直後の伊賀越えで自害しようとした家康を諫め、蜻蛉切を手に三河まで先導
- 小牧・長久手の戦い(1584年) ― 500騎で秀吉の3万に対峙、龍泉寺川で馬の口を洗う豪胆ぶりに秀吉が涙ぐむ
- 関ヶ原の戦い(1600年) ― 東軍軍監として作戦指揮、諸大名工作・本戦で90余の首級。愛馬「三国黒」を失う
参考情報
一次史料・準一次史料
- 太田牛一『信長公記』― 一言坂・三方ヶ原・長篠などにおける忠勝の活躍を記録した同時代の信頼性の高い記録
- 大久保彦左衛門忠教『三河物語』― 三河武士団の視点から徳川家草創期を記録した一次的史料
- 松平家忠『家忠日記』― 三河譜代の松平家忠の日記。徳川家中の動向を伝える
- 『改正三河後風土記』― 江戸後期成立。三河武士団の逸話を多く収録
- 『当代記』― 江戸初期成立。関ヶ原前後の徳川家中の状況を記録
準史料・編纂史料
- 新井白石『藩翰譜』(1702年成立)― 大名家の由緒・系譜を集成。蜻蛉切の柄の記述「青貝をすつたり」など忠勝関連記述を含む
- 岡谷繁実『名将言行録』(幕末〜明治初期編纂)― 忠勝の言行・逸話の主要な出典。辞世の句・遺書もこれに収録(ただし後世編纂のため取り扱い注意)
- 『寛政重修諸家譜』(1812年成立)― 江戸幕府編纂の大名・旗本系譜集。本多家の系譜・所領変遷を記録
- 松浦静山『甲子夜話』― 江戸後期の随筆。忠勝と本多正信の確執、教練と実戦での槍術の違いなどを記録
- 『耳嚢』― 江戸後期の雑話集。「死にともな」の歌を家臣・梶金平のものとして記載
学術書
- 本多隆成『徳川家康と関ヶ原の戦い』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2021年 ― 関ヶ原における家康軍の構成と忠勝の役割
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』平凡社〈中世から近世へ〉、2017年 ― 徳川家中における忠勝の位置づけ
- 煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年 ― 徳川四天王・十六神将の概要
- 平山優『真田信之 真田家を継いだ男の半生』PHP新書、2016年 ― 小松姫と真田家との縁の経緯
- 黒田基樹『真田信繁の書状を読む』星海社新書、2016年 ― 関ヶ原前後の真田・本多関係
- 沼田鎌次『【復刻版】日本の名槍』雄山閣、2021年 ― 蜻蛉切の作刀技術と現存状況についての包括的研究
公開論文・公開資料
- 水野伍貴「関ヶ原の役と本多忠勝」『研究論集 歴史と文化』第6号、2020年 ― 関ヶ原における忠勝の役割の最新研究
- 黒田智「本多平八郎の兜」『民衆史研究』第89号、2015年 ― 鹿角脇立兜の意匠と意味についての考察
- 桑名市商店連合会青年部『桑名城研究委員会 調査報告書』2018年 ― 桑名城と慶長の町割りの基礎資料
- 桑名市公式サイト「桑名市の歴史 ― 本多忠勝」― 桑名における忠勝の事績をまとめた公的資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション『岡崎市史』― 蜻蛉切に関する記述「シホゼノ打柄」など
※本記事は上記の史料・研究書・論文およびWeb上の複数の情報源をもとに構成しています。歴史の解釈には研究者の間でも見解が分かれる部分があり、今後新たな史料の発見や研究の進展によって定説が変わる可能性があります。「57回無傷」「死にともなの辞世」など、忠勝にまつわる象徴的な逸話の多くは江戸時代以降の編纂史料に依拠したものであり、本記事ではそれらを伝承として尊重しつつ、近年の研究で指摘されている疑問点も併記する形を取っています。


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