第一次:天正2年(1574年)5〜6月/第二次:天正8年(1580年)9月〜天正9年(1581年)3月 | 遠江国城東郡高天神城(現・静岡県掛川市上土方・下土方)
3行でわかるこの戦い
- 武田勝頼と徳川家康が、遠江支配の要となる難攻不落の山城・高天神城を巡って2度にわたり激突した、7年にわたる長期攻防戦
- 第一次(1574年)は勝頼が父・信玄も落とせなかった城を陥落させて武名を上げたが、第二次(1581年)では家康の6砦による包囲と兵糧攻めで武田方が玉砕
- 勝頼が援軍を送れず城兵を見殺しにしたことで武田氏の威信は致命的に失墜し、翌年の武田氏滅亡へ直結した転換点となった
本筋説 ― 教科書に載っている定説ベースの解説
なぜ戦いは起きたのか
高天神城は遠江国城東郡(現・静岡県掛川市)に位置する標高約132mの山城で、「高天神城を制する者は遠江を制す」と称された戦略的要衝である。室町時代に駿河の今川氏が遠江侵攻の拠点として築いたとされ、東峰と西峰の2つの曲輪群が井戸曲輪で連結される「一城別郭」の特殊な構造を持つ堅城だった。深い谷と急峻な崖に囲まれ、力攻めで陥落させることが極めて困難な天然の要害である。
もとは今川氏の支城で、城主は家臣の小笠原氏興が務めていた。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれて今川氏が衰退すると、永禄11年(1568年)から12年(1569年)にかけて武田信玄と徳川家康が共同で今川領を侵食。家康が掛川城を攻めて今川氏真を降伏させる過程で、高天神城主・小笠原氏興とその子・氏助(後の信興、別名長忠)父子は徳川方に寝返り、徳川氏の遠江支配の重要拠点となった。
大井川を境に武田・徳川の国境線が接すると、両者の対立は不可避となった。武田信玄は元亀2年(1571年)2月、2万の大軍を率いて遠江に侵攻、高天神城の南東の塩買坂に陣を張った。しかし信玄は獅子ヶ鼻と国安川での小競り合いだけで撤退している。高天神城が天険の要害と見て力攻めを諦めたというのが従来の通説だが、近年の研究では「戦い自体が発生しなかったのではないか」とする説も提示されている。いずれにせよ、信玄が高天神城の堅固さを認めて手出しできなかったことは事実である。
翌元亀3年(1572年)10月、信玄は本格的な西上作戦を開始。高天神城を経由して二俣城を陥落させ、12月に三方ヶ原の戦いで家康を完膚なきまでに撃破した。家康は浜松城に逃げ帰り、人生最大の敗北を喫した。翌元亀4年(1573年)4月、しかし信玄は西上作戦の途中で病死。家督を継いだ武田勝頼は、父も落とせなかった高天神城の攻略こそが自身の武名を立てる絶好の機会と捉えたのである。
合戦の経過
第一次高天神城の戦い(天正2年・1574年)
天正2年(1574年)5月、勝頼は2万5,000の大軍を率いて甲斐を出陣。小山城を経由して高天神城に攻め寄せた。守る徳川方は城主・小笠原信興(氏助、長忠)以下わずか1,000人。圧倒的兵力差の中、信興は即座に家康に援軍を要請した。
しかし家康の手勢は約1万に過ぎず、信濃から南下する可能性のある武田別働隊への備えも必要だった。家康は織田信長に援軍を要請する。信長は5月5日から京の賀茂祭に出席していたが、5月16日に京を出立、5月28日に岐阜に帰還した。この遅延が致命的だった。
武田軍は西峰の堂の尾曲輪・西の丸を次々と陥落させ、勝頼自ら指揮する精鋭が城門を突破した。籠城兵は約60日間粘ったが、本間氏清・丸尾義清・高梨秀政らが討死し、本丸を残すのみとなる。6月17日、信興は勝頼から「城兵全員の助命」と「武田家への高待遇での迎え入れ」という条件を提示され、開城を決断した。なお『信長公記』では「内通者・小笠原氏助の反乱で長忠が降伏した」と記すが、現代の研究では「小笠原氏助」と「小笠原長忠」は同一人物であり、この『信長公記』の記述が混乱を招いている(後述の諸説①で詳述)。
勝頼の戦後処理は驚くほど寛大だった。城兵全員を助命し、武田方への臣従希望者は配下に加え、徳川への帰還希望者はそのまま退去を許した。武田方に臣従した将には、姉川の戦いで活躍した「姉川七本槍」のうち6名が含まれており、徳川家臣団の動揺は深刻だった(後述の諸説④で詳述)。城主・小笠原信興も徳川を見限って武田方に降り、駿河東部に1万貫という破格の待遇で移封された。一方、徳川に戻った大須賀康高・渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣らは「横須賀衆」として対武田の最前線を担うことになる。
援軍として向かっていた信長のもとに、6月19日、高天神落城の報が届いた。信長は浜松から駆けつけた家康を慰労し、兵糧代として黄金を贈った。「2人がかりでようやく持ち上げられる革袋2個分の黄金」だったと『信長公記』は伝える。父・信玄も落とせなかった高天神城を陥落させた勝頼の声望は一気に高まり、織田・徳川連合の評価は逆に大きく失墜した。
長篠の戦いと家康の反攻(1575〜1579年)
翌天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで勝頼は織田・徳川連合軍に大敗を喫する。山県昌景・馬場信春・内藤昌豊ら武田四名臣を含む多数の重臣を失った武田家は、急速に守勢に転じた。これを機に家康は攻勢に出る。二俣城・犬居城・諏訪原城などを次々と奪取し、特に天正3年(1575年)に諏訪原城を奪取したことで大井川沿いの武田軍の補給路を断った。
武田方も座視せず、勝頼は天正4年(1576年)以降、高天神城救援のため何度も出兵した。天正4年春には横須賀城の大須賀康高と戦い、天正5年(1577年)には江尻城から大井川を越えて徳川方と抗戦。天正6年(1578年)3月、家康は駿河田中城を攻撃し、7月には高天神城攻撃の拠点となる横須賀城を完成させた。さらに天正7年(1579年)から8年(1580年)にかけて、高天神城を取り囲む6つの砦(高天神六砦:小笠山砦・三井山砦・能ヶ坂砦・火ヶ峰砦・獅子ヶ鼻砦・中村砦)を築き、高天神城を完全に包囲した。
第二次高天神城の戦い(天正8〜9年・1580〜1581年)
武田方の新しい城将は、旧今川家臣で武田家に仕えていた岡部元信。守備兵は約1,000であった。一方の徳川軍は5,000以上。家康は力攻めを避け、横須賀城と高天神六砦による徹底した兵糧攻めを展開した。武田方は陸路・海路から決死の物資補給を試みたが、天正7年(1579年)に包囲網が完成すると、補給路は完全に遮断された。
天正8年(1580年)9月、家康は満を持して高天神城への攻撃を開始した。岡部元信は何度も勝頼に援軍を要請したが、勝頼は東の北条氏との対立、新府城の築城、織田信長との和睦交渉などの問題を抱えており、援軍を派遣できなかった。天正9年(1581年)1月3日には織田方に「勝頼が高天神城に出陣した」との噂が流れたが、これは全くの虚報だった。勝頼が援軍を送らない判断の背景は、後述の諸説⑤で詳しく扱う。
万策尽きた城兵は天正9年(1581年)1月、ついに家康に降伏を申し出る。しかし家康は降伏を拒絶した。これには織田信長の指示があったとされ、信長から家康に「降伏を許可するな」との書簡が現存する。信長の狙いは、武田勝頼の声望をさらに失墜させることだった。城兵を見捨てる勝頼の姿を全国に喧伝することで、武田家臣団の動揺を引き起こす政治的判断である。
3月22日夜、兵糧が尽き果てた籠城衆約900人は、決死の覚悟で城外への突撃を敢行した。岡部元信を先頭に、城兵全員が玉砕覚悟の出撃である。徳川軍は包囲陣で迎え撃ち、岡部元信以下の武田方武将が次々と討ち取られた。死者は730人余に達し、その遺体が堀に埋まったほどの壮絶な戦いだったと伝わる。城内で監禁されていた徳川家臣・大河内政局は救出された。第一次落城時に小笠原信興が「開城を潔しとせず」として武田方の管理する城内の土牢に監禁されていた人物で、約7年ぶりの解放だった。脱出に成功した軍監・横田尹松は西側の尾根を伝って甲斐に逃れ、勝頼に落城を報告している。
落城後、わずかに生き残った城兵は基本的に助命されたが、軍監として徳川方と交渉していた孕石元泰だけは、翌日に切腹を命じられた。これは家康の今川人質時代の私怨が原因と伝わる(後述の諸説⑥で詳述)。
合戦のその後
高天神城落城は武田勝頼にとって決定的な打撃となった。当時、高天神城に詰めていた武将たちは駿河・遠江・甲斐・飛騨・上野・信濃と勝頼領国の全域から派遣されていた。「武田勝頼は国衆の安全を保証できない」という認識が全領域に伝播し、織田・徳川による調略は一気に加速する。
天正10年(1582年)2月、信長の命を受けた信忠・信濃の木曾義昌の離反を皮切りに、武田家臣の離反が雪崩のように起こった。一門衆の穴山梅雪までもが家康に内通し、武田氏の組織は内側から崩壊する。3月11日、勝頼は天目山で自害し、武田氏は滅亡した。高天神城の戦いから武田氏滅亡まで、わずか1年足らずの出来事である。落城後の高天神城は徳川方によって短期間使用された後、間もなく廃城となった。城郭としての再整備は行われず、山頂の高天神社が地元のシンボルとして残った。
同年6月、本能寺の変で信長が斃れると、家康は信長死後の混乱に乗じて武田旧領(甲斐・信濃)への侵攻を開始する。広大な地域を手中に収めた家康は、一気に大大名へとのし上がった。高天神城を巡る7年の攻防戦は、家康の天下統一への大きな足がかりとなったのである。「高天神城を制する者は遠江を制す」という言葉は、より広い意味で「高天神城を制する者は天下に近づく」という結果をもたらした。
諸説 ― 様々な角度から可能性を探る
【諸説①】小笠原氏助(信興)と小笠原長忠の同一人物問題
第一次高天神城の戦いを語る上で、長らく研究者を悩ませてきた問題が「小笠原氏助」「小笠原信興」「小笠原長忠」の人物比定である。これらの名前が、同一人物の改名による別表記なのか、それとも別人なのかが議論されてきた。
『信長公記』の混乱
江戸時代以来の主要史料『信長公記』は、第一次高天神城の戦いについて以下のように記す。「天正2年(1574年)6月18日、城内で高天神城を本拠とする国衆の小笠原氏助(信興)が武田勝頼に内通して反乱を起こし、小笠原長忠は持ちこたえられずに降伏した」。この記述だと、城内に「氏助(内通者)」と「長忠(城主)」の2人がいて、氏助が裏切ったために長忠が降伏したという構図になる。江戸時代以来、この説が定説として通用してきた。
近年の整理 ― 同一人物説
しかし近年の研究では、『信長公記』に登場する「小笠原氏助」と「小笠原長忠」は同一人物であることが確認されている。氏助は通称(仮名)で、長忠が当時の諱(実名)、信興は後に改名した名である。同じ人物が異なる名前で登場するため、『信長公記』の記述に混乱が生じたのである。
本来の経過は次のようなものだった。城主・小笠原信興(氏助、長忠)が他の将と共に約60日間籠城したが、徳川家康からの援軍はついに来なかった。武田軍の力攻めにより、本間氏清・丸尾義清・高梨秀政らが討死。城は本丸を残すのみとなった時点で、信興は城兵の命と引き換えに開城した、というのが現代の整理である。
「内通反乱」の俗説が生まれた理由
では、なぜ「氏助が内通して反乱を起こした」という俗説が江戸時代に広まったのか。これは『信長公記』の記述上の混乱に加えて、徳川史観による「裏切り者・小笠原氏」というイメージ操作も影響している可能性が指摘される。実際の信興は、約2か月にわたる絶望的な籠城戦を戦い抜き、最後に城兵の命を守るために開城した。「内通による反乱」ではなく「条件交渉による開城」だったというのが、現代の歴史学の見方である。
江戸時代の徳川史観では、徳川を裏切って武田に降った武将は「卑怯者」として描かれがちだった。小笠原信興もこの偏見の対象となり、「内通者」のレッテルを貼られた可能性が高い。第一次高天神城の戦いの真実は、徳川家康の援軍不発という政治的失策の結果として、信興が止むを得ず開城したというのが現実だったのである。
【諸説②】第一次の開城経緯 ― 「内通反乱説」と「条件交渉開城説」の対比
第一次高天神城の戦いの最終局面については、複数の説が存在する。諸説①で扱った「人物比定」の問題と関連して、「どのように城が落ちたのか」についても解釈が分かれている。
「内通反乱説」(江戸時代の通説)
『信長公記』を基にした江戸時代の通説では、城主・小笠原長忠は最後まで徹底抗戦を主張したが、城内で武田勝頼に内通していた小笠原氏助が反乱を起こし、長忠を裏切って勝頼に開城した、とされる。この構図は徳川史観における「裏切り者・小笠原氏」のイメージと一致しており、江戸時代を通じて広く流布された。
「条件交渉開城説」(現代の有力説)
これに対し、現代の研究では「条件交渉による開城」が有力視されている。約60日間の籠城戦の末、勝頼が「城兵全員の助命」「武田家への高待遇での迎え入れ」という条件を提示し、城主・小笠原信興(氏助、長忠)が城兵の命を守るために開城した、という解釈である。
この説の根拠として、勝頼の戦後処理の異例の寛大さが挙げられる。開城後、勝頼は城兵全員を処分せず、武田方への臣従希望者は配下に加え、徳川への帰還希望者はそのまま退去を許した。城主・小笠原信興には駿河東部に1万貫という破格の所領を与え、姉川七本槍の6名を含む武将を厚遇した。これらの処置は「事前の条件交渉」があったことを強く示唆する。
もし「内通反乱」による降伏なら、勝頼が城兵に対してこれほど寛大な処遇をする必要はなかった。武田方が城兵を厚遇したのは、開城の条件として事前に約束していたからこそである。「条件交渉開城説」の方が、戦後処理の整合性が取れている。
勝頼の政治的計算
もう一つの視点は、勝頼の戦略的判断である。父・信玄も落とせなかった高天神城を陥落させることは、勝頼にとって武名を立てる絶好の機会だった。一方、城兵を皆殺しにすれば、その後の遠江・駿河での反武田感情を強めるリスクがある。「武力ではなく徳で城を取った」という演出は、勝頼の政治的計算として極めて合理的だった。
結論として、第一次高天神城の戦いの実際の経過は「徳川の援軍不発→城兵の長期籠城→勝頼の条件提示→信興の決断による開城」という流れだったと見るのが、現代の歴史学の妥当な解釈である。
【諸説③】織田・徳川援軍の不発と武田勝頼の声望
第一次高天神城の戦いで最も特筆すべきは、「織田・徳川連合が援軍を出せなかった」という事実である。この援軍不発が、その後の勢力図に大きな影響を与えた。
援軍を出せなかった理由
援軍不発の理由は複合的だった。第一に、徳川家康の兵力的限界。当時の徳川軍の総兵力は約1万人で、武田の2万5,000には遠く及ばない。さらに信濃から南下する可能性のある武田別働隊への備えも必要だった。第二に、織田信長の対応の遅れ。信長は5月5日から京の賀茂祭に出席しており、信興からの援軍要請を受けた家康から信長への連絡、そして信長が京から岐阜への帰還に時間を要した。信長が岐阜に戻ったのは5月28日、援軍として岐阜を出陣したのは6月14日。三河の吉田城に到着したのは6月17日だったが、その2日後の6月19日に高天神落城の報が届いた。あと数日早ければ救援できた可能性もあったが、結果として間に合わなかった。
武田勝頼の声望上昇
第一次の勝利と寛大な戦後処理により、勝頼の声望は飛躍的に高まった。「父・信玄も落とせなかった高天神城を陥落させた」「敵兵を皆殺しにせず、城兵を厚遇した」という評判は全国に轟いた。当時、武田家中では信玄の影に苦しんでいた勝頼にとって、これは自身の武名を確立する絶好の機会だった。
織田・徳川連合の信頼失墜
一方、織田・徳川連合は「援軍を送れなかった」という事実によって信頼を大きく失墜した。「信興からの再三の援軍要請に応えられなかった家康」「賀茂祭で京を離れていた信長」というイメージは、徳川・織田支配下の国衆たちに「家康・信長は頼りにならない」という印象を与えた。
特に深刻だったのは、徳川家臣団の動揺である。小笠原信興の家臣で姉川七本槍の6名が武田方に転じたことに象徴されるように、有能な武将たちが徳川を見限り始めた(後述の諸説④で詳述)。「高天神城を見殺しにする徳川」というイメージは、家康にとって長期的に深刻な政治的打撃となった。
『信長公記』の記述強調
注目すべきは、『信長公記』が第一次高天神城の戦いについて、勝頼の声望低下を強調する記述になっていることである。これは『信長公記』が信長・家康側の視点で書かれているため、実際の援軍不発による信頼失墜を逆に「武田の声望低下」として描く意図があった可能性が指摘されている。歴史史料は常に書き手の立場を反映するという好例である。
【諸説④】「姉川七本槍」のうち6人が武田方へ転身した意味
第一次高天神城の戦い後、城兵約1,000人のうち、武田方への臣従を希望した者は驚くべき高待遇で迎え入れられた。中でも特筆すべきは、姉川の戦いで活躍した「姉川七本槍」のうち6名が武田方に転身したことである。
姉川七本槍とは
姉川七本槍とは、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで徳川方として奮戦した7人の武将である。具体的には、渡辺信重・伊達与兵衛(宗春)・伏木久内・中山是非助・吉原又兵衛・林平六・松下範久らが含まれていた。彼らはいずれも徳川家臣団の中で武名を轟かせた精鋭で、家康にとって貴重な人材だった。
6名の武田方転身
第一次高天神城の戦い後、姉川七本槍のうち6名が武田方への臣従を選択した。徳川を見限った彼らの行動は、徳川家臣団全体に深い動揺をもたらした。「姉川で命がけで戦った武将たちが、徳川を見捨てて武田に降った」という事実は、徳川家中の信頼関係に重大な亀裂を生んだ。
転身の理由
6名が武田方を選んだ理由は複数考えられる。第一に、勝頼の寛大な処遇への感謝。城兵全員の助命を実現した勝頼の「徳」を高く評価したのである。第二に、家康への失望。再三の援軍要請にもかかわらず救援が来なかったことへの失望は深刻だった。第三に、武田家の実力評価。父・信玄も落とせなかった高天神城を陥落させた勝頼の武力を、実戦経験のある武将たちは正しく評価したのである。
松下之綱(範久)は当初武田方に降ったが、後に解放され、旧知だった織田信長の家臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣となった。秀吉の出世物語の一場面として知られる、松下家での若き日の秀吉との縁が、ここで再び生かされたのである。
家康への教訓
姉川七本槍6名の武田転身は、家康にとって極めて痛い教訓となった。「家臣を見捨てれば、家臣も主君を見捨てる」という戦国の冷徹な現実を、家康は身をもって学んだのである。これ以降、家康は家臣の処遇に細心の注意を払うようになる。武田氏滅亡後、家康が武田旧臣を積極的に取り込んだのも、第一次高天神城の戦いでの苦い経験があったからこそだろう。
家康の家臣団管理術の根幹は、この時期の苦い経験から学ばれたものだったのである。後の関ヶ原での東軍諸将の結集、江戸幕府の譜代制度なども、第一次高天神城の戦いでの「家臣信頼の崩壊」を反面教師としていた可能性が高い。
【諸説⑤】第二次における勝頼の援軍見送り判断
第二次高天神城の戦い(1580〜1581年)で最も議論を呼ぶのが、武田勝頼が高天神城に援軍を派遣しなかった判断である。第一次で寛大な処遇によって声望を高めた勝頼が、なぜ第二次では城兵を見殺しにしたのか。
北条氏との対立
勝頼が援軍を派遣できなかった最大の理由は、東の北条氏との対立である。天正7年(1579年)以降、武田と北条の同盟関係は破綻し、両者は敵対関係に入っていた。勝頼は西の徳川・織田と東の北条という二正面作戦を強いられており、高天神城への援軍に十分な兵力を割けなかった。
同年3月14日には、勝頼は佐竹義重を介して安房国の里見義頼と同盟を結ぶなど、北条包囲網の構築に注力していた。東への警戒が緩められない状況で、遠江の最前線に大軍を送ることは戦略的に困難だった。
新府城の築城
もう一つの要因は、新府城の築城である。天正9年(1581年)正月、勝頼は韮崎市中田中條に新たに新府城を築城し、躑躅ヶ崎館・要害山城から本拠移転を開始した。これは武田家の権力構造を再編する大事業で、莫大な労力と資金を必要とした。新府城築城という大規模事業を進めながら、同時に高天神城への援軍を派遣することは、武田家の財政・人的資源では困難だった。
織田信長との和睦交渉
さらに、勝頼はこの頃織田信長との和睦交渉を試みていた。長篠の敗戦以降、武田家の劣勢は明らかで、信長との和睦による生き残りが模索されていた。しかし、高天神城への援軍派遣は信長との戦闘行為に直結し、和睦交渉を破綻させるリスクが高かった。勝頼は信長を刺激することを避けるため、援軍派遣を見送ったとされる。
判断の結果 ― 致命的な誤算
勝頼の判断は、結果的に致命的な誤算となった。援軍を送らないことで武田家の威信は壊滅的に失墜した。「武田勝頼は国衆の安全を保証できない」という認識が領国全域に伝わり、家臣団の動揺は深刻化した。さらに、織田信長は家康への書簡で「降伏を許可するな」と指示し、武田家の威信失墜を最大限活用する政治戦略を展開した。城兵を玉砕に追い込むことで、武田勝頼が「信頼できない主君」というイメージを全国に拡散させたのである。
結果として、翌天正10年(1582年)の武田氏滅亡は、ここに既に決定づけられていた。木曾義昌の離反、穴山梅雪の内通など、武田家臣団の雪崩のような造反は、第二次高天神城の戦いでの「援軍見送り」を原因としていたのである。
勝頼の判断の妥当性
歴史的に見れば、勝頼の判断は短期的には合理的だった。北条・新府城・信長和睦交渉という複数の要因を考えれば、援軍派遣は確かに困難だった。しかし、長期的には致命的だった。「最後の最後に家臣を見捨てる」という選択は、戦国大名としての信頼を失う最悪の選択だった。第一次で寛大な処遇により声望を高めた勝頼が、第二次で正反対の判断をしたという皮肉な結末である。
【諸説⑥】孕石元泰だけが切腹を命じられた理由
第二次高天神城の戦いの落城後、生き残った城兵の多くは助命されたが、ただ一人、孕石元泰(はらみいし もとやす)だけが翌日に切腹を命じられた。この処遇の差は、家康と元泰の個人的因縁にあるとされる。
家康と元泰の今川人質時代
家康は幼少期、今川義元の人質として駿府で過ごしていた。当時、孕石元泰は今川家の家臣で、家康(当時の松平元康)の隣家に住んでいた。家康がまだ少年だった頃、孕石は何かと家康に対して横柄な態度を取ったとされる。具体的なエピソードは史料によって異なるが、家康の鷹狩りに「うるさい」と苦情を言った、家康の家臣たちに対して見下した態度を取った、といった逸話が伝わる。
家康にとって、人質時代の屈辱は生涯忘れがたいものだった。今川家の有力家臣からの侮蔑的な扱いは、若き元康の心に深い傷を残したのである。20年以上経った第二次高天神城の戦いで、家康はついにこの旧怨を晴らす機会を得た。
切腹命令の意味
孕石元泰は第二次高天神城の戦いで武田方の武者奉行として籠城していた。落城時、彼は脱出を試みるも捕縛された。家康は他の城兵を基本的に助命する中で、元泰一人にだけ切腹を命じたのである。これは「迷惑をかけた側の家康が遺恨に思っていた」という記録が残っており、家康の私怨であることは明らかだった。
家康の人物像の二面性
この逸話は、家康の人物像の二面性を示している。一方で、家康は「忍耐の人」「寛大な天下人」というイメージを持つ。武田旧臣を積極的に取り込み、関ヶ原後も多くの敵将を許した。しかし他方で、人質時代の旧怨を20年以上忘れず、機会があれば容赦なく報復する執念深さも持っていた。
家康の「忍耐の中の執念」は、戦国大名としての強さの源泉でもあった。短期的な感情で動かず、長期的な視野で機を待つ。孕石元泰への対応は、家康のこの性格を象徴的に示すエピソードとして語り継がれている。
戦国時代の私怨と公儀
戦国時代において、合戦の戦後処理は単なる「公儀」(公的な政治判断)ではなく、個人的な「私怨」も色濃く反映された。孕石元泰の処遇は、家康個人の感情が戦後処理に直接反映された典型例である。同時に、これは戦国大名の権力の絶対性を示す事例でもある。家康のような最高権力者の意思は、誰にも妨げられない。一人の家臣の生死が、主君の個人的記憶によって決定される時代だったのである。
孕石元泰の墓は現在も静岡県内に残るとされ、戦国の個人的因縁を今に伝える史跡となっている。
戦略的に見ると
高天神城の戦いを戦略的に俯瞰すると、武田氏滅亡への決定的な転換点だったことがわかる。注目すべき論点は4つある。
第一に、「城の戦略的価値」の絶対性。高天神城は「高天神城を制する者は遠江を制す」と称された通り、遠江・駿河の国境の戦略的要衝だった。両陣営にとってこの城の奪取・保持は、地域支配の成否を左右する死活問題だった。武田信玄ですら手出しできなかった天険の要害を、勝頼が第一次で陥落させた事実は、武田家にとって計り知れない価値があった。逆に、第二次で家康が奪還したことは、武田の遠江支配の終焉を意味した。
第二に、「家臣信頼」の決定的な重要性。第一次の勝頼は寛大な戦後処理で声望を高め、姉川七本槍6名を含む徳川家臣を取り込むことに成功した。家康は再三の援軍要請に応えられなかったため、家臣団の動揺を引き起こした。「家臣を守る主君」と「家臣を見捨てる主君」の差が、戦国大名の声望を決定的に分けることを、第一次は雄弁に物語っている。皮肉なことに、第二次では立場が逆転し、勝頼が城兵を見捨てる側になった。両戦役を通じて、「家臣を守れるか否か」が戦国大名の運命を決定づけることが、最も劇的に示された事例である。
第三に、家康の「持久戦・包囲戦」戦略の完成。第二次において、家康は力攻めを避け、横須賀城と高天神六砦による完璧な包囲と兵糧攻めを展開した。3年近い長期戦を耐え抜き、勝頼の援軍を不可能にする戦略は、戦国時代の城攻めの教科書的成功例である。この「持久戦・包囲戦」のノウハウは、後の小田原征伐や大坂の陣でも生かされる家康の十八番となった。家康の戦略思想の根幹は、高天神城の戦いで完成したと言える。
第四に、織田信長の「政治戦略」の妙。第二次落城直前、信長は家康に「降伏を許可するな」と指示した書簡が残る。これは単なる戦術的判断ではなく、武田勝頼の声望を全国に喧伝するための政治的演出だった。「城兵を見殺しにする主君」というイメージを最大限活用することで、武田家臣団の動揺を引き起こし、武田家を内側から崩壊させる狙いである。実際、この戦略は的中し、翌年の武田氏滅亡につながった。信長の冷徹な政治計算は、戦国時代の天才的戦略家の真骨頂と言える。
頼山陽の『日本外史』に倣えば、「家康の天下を取る、関ヶ原に在らずして、高天神に在り」と言える。武田氏滅亡という決定的な勝利が、第二次高天神城の戦いの勝利から始まり、信長死後の家康による武田旧領奪取につながった。家康はこの一連の流れの中で、東海地方の絶対権力者へと飛躍した。小牧・長久手の戦いで秀吉と対峙し、最終的に関ヶ原の戦いで天下を取るまでの道のりは、すべて高天神城の戦いの勝利から始まったのである。
この合戦にまつわる名言・言葉
「高天神城を制する者は遠江を制す」
(たかてんじんじょうをせいするものはとおとうみをせいす)
戦国時代に広まっていたとされる、高天神城の戦略的重要性を示す言葉。遠江国の中央に位置する高天神城は、北の小笠山と南の遠州灘を結ぶ要衝で、東の駿河と西の三河を分かつ国境の城だった。武田・徳川両陣営にとって、この城の支配が遠江全体の支配に直結することから、繰り返し争奪戦が行われた。実際、第一次で武田に渡った高天神城のために、家康は7年にもわたる包囲戦を展開せざるを得なかった。
― 出典:戦国時代の俚諺(複数の郷土史料に記載)
「降伏を許すな。城兵を皆殺しにせよ」
(こうふくをゆるすな。じょうへいをみなごろしにせよ)
天正9年(1581年)1月、第二次高天神城の戦いで武田方の城兵が降伏を申し出た際、織田信長が徳川家康に送った書簡の内容を要約したもの。「武田勝頼が城兵を見殺しにする姿を全国に喧伝する」という政治戦略のため、信長は城兵の救命より勝頼の声望失墜を優先した。家康はこの指示に従い、降伏を拒絶。城兵は3月22日の玉砕に追い込まれた。この信長の書簡は現存し、戦国大名の冷徹な政治計算を示す貴重な一次史料となっている。
― 出典:織田信長から徳川家康への書簡(現存)
「父も落とせなかった高天神城を、私は落とした」
(ちちもおとせなかったたかてんじんじょうを、わたしはおとした)
第一次高天神城の戦いで勝利した後、武田勝頼が発したとされる言葉。父・信玄ですら陥落させられなかった難攻不落の山城を、自身の代で攻略した自負を込めている。父の影に苦しんでいた勝頼にとって、この勝利は自身の武名を確立する絶好の機会だった。江戸時代の軍記物による脚色の可能性は否定できないが、勝頼の心情を象徴する言葉として後世に語り継がれている。皮肉なことに、その7年後の第二次では、勝頼は援軍を送れず城兵を見殺しにすることになった。
― 出典:江戸時代の軍記物(『甲陽軍鑑』ほか)
「我ら玉砕すとも、武田の名を残さん」
(われらぎょくさいすとも、たけだのなをのこさん)
第二次高天神城の戦いの最終局面、勝頼からの援軍が絶望的となった状況で、城将・岡部元信が城兵に発したとされる訓示。天正9年(1581年)3月22日夜、籠城衆約900人は決死の出撃を敢行し、岡部元信以下730人余が玉砕した。武田に殉じた彼らの覚悟は、戦国武士の意地として後世繰り返し語られている。江戸時代の軍記物では、岡部元信の最期の場面が劇的に描かれているが、史料的厳密性については慎重な検討が必要である。
― 出典:江戸時代の軍記物(『甲陽軍鑑』『家忠日記』ほか)
逸話・エピソード集
武田信玄、高天神城の攻略を諦める
元亀2年(1571年)2月、武田信玄は2万の大軍を率いて遠江侵攻を開始した。3月、高天神城の南東の塩買坂に陣を張った信玄は、高天神城の攻略に取りかかる構えを見せた。しかし、信玄は獅子ヶ鼻と国安川での小競り合いだけで撤退してしまう。
この時の信玄の判断について、『掛川市史』は「城外に出ている高天神城の兵たちを城内に押しもどすだけでよい」と信玄が語ったと記す。これは表向きの言い分で、真相は「高天神城が天嶮の要害に築かれた堅城であるのを見て、力攻めをあきらめた」というのが当時の見方だった。「軍神」と呼ばれた信玄ですら攻めあぐねた高天神城の堅固さが、この逸話から伝わる。
なお、近年の研究では「元亀2年の戦い自体が発生しなかった」とする説も提示されている。信玄の遠江侵攻のルート上で高天神城は重要な拠点だったが、史料の記述には矛盾があり、実際にどこまで攻略を試みたかは不明確である。いずれにせよ、信玄の代では高天神城を陥落させることはできなかった事実は変わらない。
― 出典:『掛川市史』『高天神城の歴史』(掛川市公式)
織田信長、家康に黄金を贈る
天正2年(1574年)6月19日、援軍として向かっていた織田信長のもとに、高天神城落城の報が届いた。間に合わなかった信長は、浜松城から駆けつけた家康を慰労する。この時、信長は兵糧代として家康に大量の黄金を贈った。
『信長公記』によれば、その量は「2人がかりでようやく持ち上げられる革袋2個分」だったという。家康にとっては、援軍を間に合わせられなかった信長からの謝罪と慰労の意味があった。同時に、信長にとっては「援軍不発の責任を取る」という形で同盟関係を維持する政治的判断でもあった。
この黄金は、家康が後の高天神城奪還作戦の資金として活用した可能性が高い。横須賀城の建設や、高天神六砦の整備など、長期にわたる包囲戦には莫大な費用が必要だった。信長の黄金は、結果的に7年後の家康の勝利の伏線となったのである。戦国の同盟関係における物質的支援の重要性を示す逸話として、繰り返し引用される。
― 出典:太田牛一『信長公記』
姉川七本槍の松下範久と若き日の秀吉
第一次高天神城の戦い後、武田方に降った武将の中に松下範久(後の松下之綱)がいた。松下家は、若き日の豊臣秀吉(当時の木下藤吉郎)が仕えた家として知られる。秀吉は今川家の支配下にあった頃、松下加兵衛(之綱の父)の家で奉公人として働いていた経験があった。
松下之綱は武田方に臣従したが、後に解放され、旧知だった織田信長家臣の羽柴秀吉に迎えられた。秀吉は若き日の恩人の子を取り立て、自身の家臣として遇したのである。松下之綱は秀吉のもとで活躍し、後に遠江久野城主3万石にまで出世した。
この逸話は、戦国時代の人脈の重要性を示している。秀吉の出世物語の一場面で関わった家が、20年後に再び秀吉と結ばれることになった。第一次高天神城の戦いという大きな歴史の流れの中で、個人の人脈が連綿と続いていたのである。秀吉の「人たらし」の真骨頂は、こうした旧縁を大切にする姿勢にあったとされる。
― 出典:『信長公記』『松下家系譜』
高天神六砦 ― 家康の包囲網の完成
第一次で高天神城を失った家康は、奪還のために執念深い包囲戦略を展開した。横須賀城(天正6年完成)を最前線の拠点とした上で、高天神城を取り囲む6つの砦を築いた。これが「高天神六砦」である。具体的には、小笠山砦・三井山砦・能ヶ坂砦・火ヶ峰砦・獅子ヶ鼻砦・中村砦の6つ。それぞれが高天神城を望む位置に配置され、武田方の補給路を完全に遮断した。
家康は天正7年(1579年)から8年(1580年)にかけて、この六砦を整備した。武田方も座視せず、勝頼は天正4年から繰り返し救援に出兵したが、家康の堅固な包囲網を破ることはできなかった。「兵糧攻め」というじっくりとした戦略の威力が発揮された典型例である。
家康の「包囲戦・持久戦」のノウハウは、ここで完成したと言える。後の小田原征伐、大坂冬の陣・夏の陣など、家康の城攻めは常に「包囲と兵糧攻め」を基本としている。高天神城の戦いは、家康の戦略思想の原型となった戦いなのである。現在、高天神城跡周辺には六砦の遺構が残り、家康の包囲戦の壮大さを今に伝えている。
― 出典:『家忠日記』『高天神城の歴史』(掛川市公式)
→ 詳しくは武将記事「徳川家康」を参照
岡部元信の最期 ― 城兵730人と共に玉砕
第二次高天神城の戦いの城将・岡部元信は、もとは今川家の重臣だった。桶狭間の戦いでは鳴海城を死守し、今川義元の首と引き換えに開城した武将として知られる。今川氏滅亡後は武田家に仕え、その忠勇を高く評価されて高天神城の城将に任命された。
第二次の籠城戦では、岡部は1,000人足らずの兵で家康の5,000以上の包囲軍に対抗した。何度も勝頼に援軍を要請したが、援軍は来なかった。天正9年(1581年)正月、城兵は降伏を申し出るが、家康はこれを拒絶。万策尽きた岡部以下の籠城衆は、3月22日夜、決死の覚悟で城外への突撃を敢行した。
岡部は先頭に立って徳川軍に切り込み、討死した。城兵約900人のうち、730人余が玉砕したと伝わる。彼らの遺体が堀に埋まったほどの壮絶な戦いだった。桶狭間で「今川義元の首と引き換えに開城した」岡部が、25年後に「武田勝頼に見捨てられて玉砕した」のは、戦国の運命の皮肉と言える。
岡部元信の忠勇は、後世の武士の手本として語り継がれた。江戸時代の武士道書には、岡部の最期がしばしば引用され、「主君への忠義の鑑」として称賛された。武田に殉じた彼の生涯は、戦国武士の理想像を体現したものとして、今に伝わっている。
― 出典:『甲陽軍鑑』『信長公記』『家忠日記』
大河内政局、7年間の土牢生活から解放
第一次高天神城落城時、徳川家臣の大河内政局は、小笠原信興の開城判断に反対し、最後まで徹底抗戦を主張した。武田方の支配下に置かれることを潔しとせず、武田方への臣従を拒否した結果、城内の土牢に監禁されることになった。
大河内政局はその後、約7年間にわたって高天神城内の土牢に閉じ込められ続けた。武田方は彼の徳川への忠誠心を尊重し、処刑せずに監禁という形で扱った。これは戦国時代の慣例として、敵将の処遇に一定の敬意を払うものだった。
天正9年(1581年)3月22日の第二次落城時、徳川軍が城内に突入すると、土牢から大河内政局が救出された。7年ぶりの解放である。家康は政局の忠義を高く評価し、彼を厚遇した。「7年間の土牢生活に耐え抜いた忠臣」として、政局の名は徳川家中で語り継がれた。
大河内政局の逸話は、戦国時代の武士の忠誠の極限を示すものとして印象的である。同時に、武田方の彼への処遇(処刑せず監禁)も、戦国大名の「敵への一定の敬意」を示している。第二次落城という悲劇の中の救出劇として、この逸話は今も語り継がれている。
― 出典:『家忠日記』『大河内系譜』
横田尹松の脱出 ― 西側尾根伝いの逃走路
第二次高天神城落城の混乱の中、軍監として籠城していた横田尹松は、ひそかに城を脱出することに成功した。彼は西側の尾根を伝って甲斐へと向かい、勝頼に高天神落城の事実を報告した。
横田尹松の脱出路は、現在も「逃走道」として高天神城跡に残っている。西峰から続く尾根は、複雑な地形と深い森林に覆われており、追手の目を逃れて甲斐まで辿り着くには相当の困難があったはずである。横田は約100kmの距離を、徳川方の警戒網をくぐり抜けて踏破した。
横田尹松が勝頼に報告した内容は、武田家中に衝撃を与えた。「城兵全員が玉砕した」という報せは、勝頼の判断ミスを最も鋭く突きつける事実だった。横田自身は勝頼に何も言わなかったかもしれないが、彼の存在そのものが「主君に見捨てられた家臣」を象徴することになった。
翌天正10年(1582年)、武田家臣の離反が雪崩のように起こった時、横田尹松もまた武田家を離れた一人だった。彼が見た高天神城の現実が、武田家滅亡への流れを加速させたとも言える。一人の軍監の脱出が、武田家の運命を決定づけた瞬間だった。
― 出典:『甲陽軍鑑』『高天神城の歴史』(掛川市公式)
高天神城の戦い 時系列
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 永禄11年〜12年(1568〜69年) | 武田・徳川共同で今川領を侵食。高天神城主・小笠原氏興父子が徳川方に寝返り |
| 元亀2年(1571年)2〜3月 | 武田信玄、塩買坂に陣を張るも高天神城攻略を断念して撤退 |
| 元亀3年(1572年)12月 | 三方ヶ原の戦い。信玄が家康を撃破 |
| 元亀4年(1573年)4月 | 武田信玄、西上途中で病死。勝頼が家督継承 |
| 天正2年(1574年)5月 | 第一次高天神城の戦い開始。勝頼が2万5,000で攻撃 |
| 5月〜6月 | 小笠原信興、家康に援軍要請。家康は信長に救援要請 |
| 5月28日 | 信長、賀茂祭から京を出立して岐阜帰還 |
| 6月17日 | 小笠原信興、勝頼の条件提示を受けて開城 |
| 6月19日 | 援軍中の信長に落城の報。家康に黄金を贈る |
| 天正3年(1575年)5月 | 長篠の戦い。武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗 |
| 天正3年〜6年 | 家康、二俣城・諏訪原城・犬居城などを奪取。武田方反攻の動きも続く |
| 天正6年(1578年)7月 | 家康、横須賀城を完成させる。対高天神の前線拠点 |
| 天正7年〜8年(1579〜80年) | 家康、高天神六砦(小笠山・三井山・能ヶ坂・火ヶ峰・獅子ヶ鼻・中村)を完成 |
| 天正8年(1580年)9月 | 第二次高天神城の戦い開始。家康、5,000以上で本格攻撃 |
| 天正9年(1581年)正月 | 勝頼、新府城築城開始。岡部元信からの援軍要請に応えられず |
| 天正9年(1581年)1月3日 | 織田方に「勝頼出陣」の虚報。城兵が降伏を申し出るも家康が拒絶 |
| 天正9年(1581年)正月 | 信長、家康に「降伏を許すな」と書簡で指示 |
| 3月22日 夜 | 籠城衆約900人が決死の出撃。岡部元信ら730人余が玉砕 |
| 3月23日 | 徳川家臣・大河内政局、7年間の土牢生活から救出。孕石元泰のみ切腹 |
| 3月下旬 | 軍監・横田尹松、西側尾根を伝って甲斐へ脱出。勝頼に落城報告 |
| 天正10年(1582年)正月 | 木曾義昌、武田家を離反。武田家臣団の動揺始まる |
| 天正10年(1582年)3月11日 | 武田勝頼、天目山で自害。武田氏滅亡 |
| 天正10年(1582年)6月 | 本能寺の変。家康、信長死後の混乱に乗じて武田旧領を奪取 |
※ 日付は旧暦。背景色:黄色=主要事件、赤色=合戦・戦死関連
高天神城の戦い 両軍の主要人物
東軍(徳川軍/攻城側、第一次は約1,000の守備、第二次は約5,000以上で包囲)
| 役割 | 人物 | 概要 |
|---|---|---|
| 総大将 | 徳川家康 | 第一次33歳・第二次40歳。第一次は援軍不発で大失態、第二次は7年の包囲戦で奪還 |
| 第一次城主 | 小笠原信興(氏助・長忠) | 第一次の城主。約60日籠城後、城兵の助命と引き換えに開城。武田方へ転身 |
| 第一次討死 | 本間氏清・丸尾義清・高梨秀政 | 第一次の籠城戦で武田の力攻めにより討死した徳川方の武将たち |
| 徳川重臣 | 大須賀康高 | 第一次後に馬伏塚城へ。後に横須賀城を築き対武田前線を担う。「横須賀衆」の中心 |
| 横須賀衆 | 渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣 | 大須賀康高の与力。横須賀城で対武田の最前線を担う「横須賀七人衆」の中心 |
| 徳川家臣 | 大河内政局 | 第一次で開城に反対し土牢に7年間監禁。第二次落城時に救出される |
| 徳川四天王 | 本多忠勝 | 第二次の包囲戦に参加。家康の戦略遂行を支える |
| 同盟者 | 織田信長 | 第一次は援軍が間に合わず家康に黄金を贈る。第二次は「降伏を許すな」と指示 |
西軍(武田軍/籠城側、第一次は約2万5,000で攻城、第二次は約1,000で籠城)
| 役割 | 人物 | 概要 |
|---|---|---|
| 総大将 | 武田勝頼 | 第一次28歳で大勝利。第二次は援軍を送れず城兵を見殺しに。翌年武田氏滅亡 |
| 第一次先鋒 | 山県昌景 | 武田四名臣の一人。第一次で高天神城の城門を突破。長篠で討死 |
| 第二次城将 | 岡部元信 | 旧今川家臣。桶狭間で鳴海城を死守した武将。第二次で玉砕 |
| 第二次軍監 | 横田尹松 | 第二次落城時に西側尾根を伝って甲斐へ脱出。勝頼に落城を報告 |
| 第二次討死 | 孕石元泰 | 武者奉行。家康の今川人質時代の私怨で、生き残るも翌日切腹を命じられる |
| 武田方転身 | 渡辺信重・伊達宗春・松下範久ら | 第一次後に武田方に降った姉川七本槍の6名。徳川家臣団の動揺を象徴 |
| 前城主 | 小笠原氏興 | 小笠原信興(氏助、長忠)の父。今川家臣から徳川家臣へ。第一次の前年に死去 |
関連史跡マップ・旅行モデルコース
関連史跡マップ ― 高天神城の戦い
マップ上のスポット:
- 高天神城跡(城)― 戦いの舞台。東峰と西峰の「一城別郭」構造。続日本100名城
- 横須賀城跡公園(城)― 家康が築いた対高天神の前線拠点。河原石を積んだ独特な石垣が現存
- 小笠山砦跡(砦)― 高天神六砦の中心。山頂から高天神城・掛川城を一望できる
- 馬伏塚城跡(城)― 大須賀康高の最初の対武田拠点。第一次後に置かれる
- 掛川城(城)― 木造復元天守。徳川氏の遠江支配の重要拠点
- 浜松城(城)― 家康の本拠地。第一次時の援軍要請を受けた場
- 高天神城とちさわめぐりミュージアム(博物館)― 高天神城の戦いを詳しく学べる施設
※ 地図は現代の道路に基づく参考表示です。戦国時代の道路・地形とは異なります。
旅行モデルコース ― 高天神城の戦い ― 家康の包囲網を辿る1日コース
前提条件
- 所要時間:約6〜7時間(車)
- 徒歩速度:時速約4km、各スポット滞在:30分〜90分
- 起点:浜松城(JR浜松駅から徒歩約20分/車で約10分)
モデルコース
① 浜松城(滞在:約60分)
家康の本拠地。第一次の援軍要請を受けた場。歴史展示も充実。
– 車:JR浜松駅から約10分
② 馬伏塚城跡(滞在:約30分)
大須賀康高の最初の対武田拠点。現在は遺構のみ。
– 車:浜松城から約40分
③ 横須賀城跡公園(滞在:約60分)
家康の対高天神前線拠点。河原石を積んだ独特な石垣が見どころ。
– 車:馬伏塚城跡から約15分
④ 高天神城跡(滞在:約120分、健脚向け)
戦いの舞台。東峰・西峰の「一城別郭」構造をハイキングで体感。本丸・井戸曲輪・西の丸(高天神社)など見どころ多数。
– 車:横須賀城跡から約20分
⑤ 小笠山砦跡(滞在:約60分、健脚向け)
高天神六砦の中心。山頂から高天神城と掛川城を一望できる絶景ポイント。
– 車:高天神城跡から約15分(林道)
⑥ 掛川城(滞在:約60分)
木造復元天守。徳川氏の遠江支配の中心地。城下町散策も楽しめる。
– 車:小笠山砦から約15分
対象者別アレンジ
- 1泊2日コース:初日は浜松城〜横須賀城〜高天神城、2日目は小笠山砦・残りの六砦・掛川城を巡る「家康包囲網」コース
- 城マニア向け:高天神城+横須賀城+掛川城+小笠山砦の山城めぐり。続日本100名城スタンプも
- ゆったり派:掛川城+高天神城(中腹まで車)+高天神城跡資料館の3か所で半日コース
- 武田勝頼の道:新府城(山梨)+武田氏館+天目山(武田氏終焉の地)+高天神城の「武田氏滅亡」コース
※ 本プランは一般的な移動速度・滞在時間をもとに作成した参考モデルです。施設の営業時間・交通ダイヤ・混雑状況は季節や曜日によって変動します。お出かけの際は最新情報を各施設・交通機関の公式サイトでご確認ください。
※ 入山料・入館料等は記載時点の参考価格です。変更されている場合があります。
※ 高天神城跡・小笠山砦跡の登山は天候や体力に応じて無理のない計画を立ててください。両者とも遊歩道はありますが、健脚向けです。
関連する記事
合戦記事
- 桶狭間の戦い(1560年) ― 今川義元の死で高天神城が徳川領となる発端
- 三方ヶ原の戦い(1572年) ― 信玄が家康を撃破。武田の西上作戦中で高天神を経由
- 長篠の戦い(1575年) ― 勝頼が大敗を喫し守勢に転じる。第二次の前提
- 姉川の戦い(1570年) ― 姉川七本槍が活躍。後に6名が武田方へ転身
- 本能寺の変(1582年) ― 武田氏滅亡後の信長死。家康が武田旧領を奪取
- 小牧・長久手の戦い(1584年) ― 家康と秀吉の対決。高天神での勝利が伏線
武将記事
- 徳川家康 ― 第一次の屈辱を7年かけて雪辱。包囲戦の達人へ
- 武田勝頼 ― 第一次で武名を上げ、第二次で武田氏滅亡を決定づけた
- 武田信玄 ― 高天神城の堅固さに手出しできなかった「軍神」
- 織田信長 ― 第一次の援軍に間に合わず、第二次で「降伏を許すな」と指示
- 本多忠勝 ― 第二次の包囲戦に参加した徳川四天王
- 豊臣秀吉 ― 第一次後、武田方を脱した松下範久を家臣に迎える
参考情報
一次史料
- 太田牛一『信長公記』― 第一次の経過と戦後処理の主要記述
- 『甲陽軍鑑』― 武田家視点での第一次・第二次の記録
- 『家忠日記』― 松平家忠による日記。第二次の経過を同時代で記録
- 織田信長から徳川家康への書簡(現存)― 第二次の「降伏を許すな」指示
- 『当代記』― 慶長期成立、両次の戦いを記録
学術書
- 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』37号、2007年
- 鴨川達夫『武田信玄と勝頼-文書にみる戦国大名実像』岩波書店、2007年
- 本多隆成『定本 徳川家康』吉川弘文館、2010年
- 谷口克広『信長軍の合戦史 1560-1582』吉川弘文館、2016年
- 平山優『増補改訂版 長篠合戦と武田勝頼』戎光祥出版、2014年
- 掛川市史編さん委員会 編『掛川市史』掛川市
- 静岡県史編さん委員会 編『静岡県史』静岡県
公開論文
- 掛川市「高天神城跡保存活用計画」
- 菊川歴史くらぶ「【どうする家康】高天神城の戦い」
- 「高天神城の戦い ― 武田氏滅亡への転換点」『戦国合戦大全』学研
公的機関資料
- 掛川市公式観光案内「高天神城跡」
- 静岡県観光協会「高天神城とちさわめぐりミュージアム」
- 続日本100名城 高天神城(静岡県掛川市)
- 国指定史跡 高天神城跡
- 掛川市「今、よみがえる高天神城」公式サイト
※本記事は上記の史料・研究書・論文およびWeb上の複数の情報源をもとに構成しています。歴史の解釈には研究者の間でも見解が分かれる部分があり、今後新たな史料の発見や研究の進展によって定説が変わる可能性があります。

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